頭脳派の捕手。そして多くの野球選手の視野を海外へと広げた開明的な指導者だった。

和田博実、全本塁打一覧|本塁打大全



1937年3月生まれ。桑田武、森祇晶、上田利治、アイク生原、MLBではブルックス・ロビンソン、オルランド・セペダ、クリート・ボイヤー、ホワン・マリシャルらが同い年。

臼杵高校から1955年西鉄ライオンズに入団。

キャリアSTATS

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初出場は1955年9月16日、川崎球場の毎日戦、8回裏に守備固めで出場。
初安打は10月8日、小倉豊楽園球場の阪急戦ダブルヘッダー2戦目、日比野武に代わってマスクをかぶり、7回裏に阿部八郎から。
パ・リーグ屈指の強豪西鉄の正捕手は日比野武。和田は同期入団の桐生高校出の田辺義三、3歳上の久保山誠と併用されたが、正確なキャッチングと肩の良さを買われ、1957年には正捕手に。
全盛期の稲尾和久の信頼も厚かった。

打撃は非力だったが、1960年ころから打率が急上昇。足も捕手としては俊足で、打線の上でも戦力となった。
1学年上の野村克也がいたために、ベストナインには一度も選出されなかったが、名捕手の一人と言ってよい。

1967、68年は外野にコンバートされる。その後捕手に戻るが、あまりマスクはかぶらず、代打が多かった。

1000本安打は1968年5月31日、平和台球場の東映戦、3番中堅で先発し、3回裏に田中調から左越2ラン。

古くは川崎徳次から河村久文、稲尾和久、池永正明、田中勉、そして東尾修まで、ライオンズを代表する投手の球を受けてきた。

引退後は、指導者となる。ライオンズが資本を入れた米マイナーのローダイ・ライオンズのコーチをした経験から、若手選手の留学の必要性を痛感し、西武ライオンズのコーチになってから、サンノゼ・ビーズへの野球留学を主導。
このなかから秋山幸二、工藤公康、大久保博元、鈴木健などの野球人が育っていった。

72歳で没。早すぎる死ではあった。



1964・65年中山義朗、全登板成績【巨人キラー、ノーヒットノーランを達成】


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