オリックスに肩いれできないのには、ひとつには近鉄バファローズに対する複雑な感情がある。
近鉄バファローズは、1950年に創設された関西では一番新しい球団だ。

近鉄線は、大阪の上本町をターミナルとし(のちに難波に延伸)、南は奈良の吉野、北は京都、東は名古屋までをつなぐ大路線を持つ私鉄だ。
しかしながら、その路線は、都市部にはあまり通っていなかった。どちらかといえば、田舎、新興住宅地をつなぐ路線だった。
その上に、近鉄は中小の電鉄会社を買収してできたものであり、沿線文化はそれほど感じられなかった。
かろうじてメイン路線である近鉄奈良線が、住宅ブームによって高級住宅地ができるようになったが、そこに入居したのはサラリーマン層であり、旦那衆が移り住んだ芦屋や西宮とは、格が違った。

近鉄バファローズは1950年の野球ブームに乗じて設立された。それはそれは弱い球団で、当初のニックネームパールズから「玉砕球団」と言われた。
千葉茂を監督に招いて「バファロー」となるも、一向に強くならず、阪急とともに地味でおとなしい球団だった。

私は近鉄沿線に住んでいたが、熱心南海ファンで、近鉄のことを疎ましく思っていた。
近鉄の応援団は、南海や阪急の真似をするのである。
何度か触れたが、吉田、香川と2人の捕手がいた南海が「香川に比べれば」ということで「吉田、吉田、男前」とやると、近鉄も当時の正捕手の山下を「山下、山下、男前」とやるのである。
「真似すなー」と南海ファンが叫ぶのが常だった。

本拠地は藤井寺だったが遠くて、ナイター設備もなかった。多くの試合は森之宮の日生球場でやった。外野が小さくて狭い球場だった。蚊も多くてわびしい球場だったが、ここで私はたくさんの選手を見たものだ。

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88年と言えば、近鉄が全国区で注目された10.19があった年だ。私もテレビに夢中になっていたが、この日に阪急ブレーブスの身売りが発表された。すでに南海はその前に身売りが発表されている。

近鉄にとって、南海が福岡に行くことは、市場のライバルが減ることではあった。しかし観客動員はいっかな増えなかった。
沿線カラー、球団カラーが違うから、おいそれと乗り換えるわけにはいかなかったのだ。

近鉄は、大阪ドームが建設されるとここを本拠にした。
味気ないドーム球場だが、アクセスが良くなったこともあってよく出かけた。

中村紀洋、北川博敏、大村直之、高村祐、大塚晶文、タフィ・ローズ、このころの近鉄はなかなか癖のある選手がそろっていた。
観客動員は今一つだったが、活気があった。
あの北川の代打満塁サヨナラ優勝決定本塁打の盛り上がりはすさまじかった。

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しかしながら白状すると、私は近鉄にそんなに感情移入できなかった。南海や阪急という「大人のチーム」に比べれば物足りなかったのだ。

しかし、今にして思えば、唯一の大阪のNPB球団として16年の長きにわたって孤軍奮闘したことは、もっと評価されてよかったと思う。

ファンの気持ちを無視し、選手の気合を奪う「合併」という最悪手で、その歴史を終えてから、近鉄バファローズは、かけがえのないチームだったと思うようになった。

今ではオリックス・バファローズには近鉄資本は入っていない。2007年を最後に完全な赤の他人になってしまった。

オリックス・バファローズに味気ない思いを抱くのも、こういう形で電鉄系の球団が消えていったことへの喪失感があったからだ。

近鉄はバファローズの記念展示をしていない。
藤井寺球場前には、よくわからないモニュメントがあるだけだ。日生球場も今はない。

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バファローズをもう少ししっかり見ておくべきだったと今更ながら思う次第だ。

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