左打ちのシャープな内野手。先日物故した荒川博の同僚だった。
八田正 本塁打大全
1936年10月生まれ。同い年に田中 尊、古葉 竹識、中 登志雄、興津 立雄、太田誠、片岡 宏雄 、稲川 誠、若生 忠男、根来 広光、榎本 喜八、葛城 隆雄、MLBではハーモン・キルブリュー、ビル・マゼロウスキー、ドン・ドライスデール。
徳島県鳴門工高から1955年。大映スターズに入団。
キャリアSTATS
初出場は1年目の1955年7月20日の川崎l球場、毎日戦、遊撃の守備固め。初安打は7月26日、後楽園の西鉄戦、大津守から。
1年目は山田清の控え遊撃手だったが、翌年には正位置に。1957年は与儀真助の控えとなるが、1958年、大映と毎日が合併。
1年目は葛城隆雄が正遊撃手だったが、リーグ最多の42失策。翌59年には葛城が三塁に回り、正遊撃手となる。
俊敏な守備と強肩、勝負強い打撃でレギュラーの座を張り続けた。打者としてはやや早打ちだったが、2番または下位を打って、バントもそつなくこなした。
1961年に二塁に転向、手堅い守備で貢献した。
1968年に10年選手となるが、球団はボーナスの支払いを拒否して八田を自由契約にした。この時は球団の対応が問題になったが、10年選手での移籍は1965年の金田正一を最後に途絶えており、球界は廃止したい意向だったようだ。八田は割を食った。
阪急でも二塁手、代打として活躍し、1971年に引退。引退後は編成、スカウトとして活躍した。
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徳島県鳴門工高から1955年。大映スターズに入団。
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初出場は1年目の1955年7月20日の川崎l球場、毎日戦、遊撃の守備固め。初安打は7月26日、後楽園の西鉄戦、大津守から。
1年目は山田清の控え遊撃手だったが、翌年には正位置に。1957年は与儀真助の控えとなるが、1958年、大映と毎日が合併。
1年目は葛城隆雄が正遊撃手だったが、リーグ最多の42失策。翌59年には葛城が三塁に回り、正遊撃手となる。
俊敏な守備と強肩、勝負強い打撃でレギュラーの座を張り続けた。打者としてはやや早打ちだったが、2番または下位を打って、バントもそつなくこなした。
1961年に二塁に転向、手堅い守備で貢献した。
1968年に10年選手となるが、球団はボーナスの支払いを拒否して八田を自由契約にした。この時は球団の対応が問題になったが、10年選手での移籍は1965年の金田正一を最後に途絶えており、球界は廃止したい意向だったようだ。八田は割を食った。
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