コメントで先に言われてしまったが、1992年ころに、「夢がMORIMORI」というバラエティ番組があったのを覚えておられるだろうか。
森口博子、森脇健児がMCで、まだ森且行もいたSMAPが「若い衆」で出ていた番組だ。
時代を感じさせるが、この中にキックベースボールのコーナーがあった。
投手が転がしたバレーボールのボールを蹴ってプレーする。ルールはほぼ野球と同じだ。
毎週MORIMORIチームとゲストのチームが対戦するのだが、毎週どんなチームと当たっても好勝負になる。
森且行や森末慎二などの主力級のホームランで逆転することもあったが、森口博子の「ちょろキック」も有効だった。
つまり、アスリートと素人が試合しても好ゲームになるのだ。
打者の動きは野球というよりサッカーだし、野手の動きもドッジボールだったが、試合の流れは完全に野球だ。
塁を離れた選手がボールをぶつけられたらアウトというのはあったが、走者の進め方、得点の仕方など、野球の肝になる部分のルールを理解するうえで、非常に有効だと思う。
こういうスタイルのゲームを好きになってもらうためにも、これは有効だ。
こーじ苑さんの試みは、本当に有効だと思う。
キックベースボールも野球の普及だ
こーじ苑さんも言っておられるが、キックベースボールは、「遊び」気分が横溢している。
これが素晴らしい。
本格的なスポーツではないからかもしれないが、きゃらきゃら笑いながらプレーをするのが基本になっている。
それがいいのだ。
日本では「遊び」はネガティブな言い方をされることが多い。
「遊び半分でやるなら、やめてしまえ!」
「これは遊びではない」
「遊んでいる暇があれば練習しろ」
日本のスポーツは、「遊び」を排除し、「仕事」と同格、あるいはそれ以上の「苦労」「真剣さ」を求めるものだとされてきた。
日本にスポーツが入ってきた明治時代、当時の支配者層は「遊びによってリラックスし、人間性を高める」という考え方を理解できなかった。
スポーツにかかわる人たちは、そういう人たちにも受け入れてもらうために
「これは遊びじゃなくて、武道と同じようなものです」
「西洋では遊びでしたが、日本では武士道に照らして改良します=和魂洋才」
「体を動かすのは、強い兵隊を作るのにも役立ちます」
というプレゼンテーションをし続けた。
これで支配者層を安心させ、スポーツを日本に普及させたのだ。
その形が戦後になっても続いていて、「遊びじゃない」スポーツのまま、ここまで続いてきてしまった。
しかし、社会が成熟し、人々が「量」ではなく「生活の質」を求めるようになってきて、日本のスポーツは世の中からかい離するようになった。
「血の汗流せ、涙をふくな」
「何のために?なんでそんな苦労しないといけないの?」
という時代になったのだ。
これまでの「道」と名の付く日本のスポーツは、選手が「道」に奉仕し、先輩、恩師、強度などのために、自らの持てる才能と努力を捧げるものだった。
しかしスポーツは本来、プレーする個々人が享受し、楽しむものだった。スポーツのために選手があるのではなく、選手のためにスポーツは存在したのだ。
今、がちがちで頑張っているスポーツは、サッカーを除いて、なかなかそういうパラダイムシフトが起きていない。既得権益が大きすぎて、変革ができない。
そうであれば、キックベースやその他の「優しい系」「ゆるい系」のスポーツから変革を起こすのもありだろう。
キックベースは間違っても「1000本キック」「グランド100周」みたいにならないでほしい。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
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好評発売中!
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毎週MORIMORIチームとゲストのチームが対戦するのだが、毎週どんなチームと当たっても好勝負になる。
森且行や森末慎二などの主力級のホームランで逆転することもあったが、森口博子の「ちょろキック」も有効だった。
つまり、アスリートと素人が試合しても好ゲームになるのだ。
打者の動きは野球というよりサッカーだし、野手の動きもドッジボールだったが、試合の流れは完全に野球だ。
塁を離れた選手がボールをぶつけられたらアウトというのはあったが、走者の進め方、得点の仕方など、野球の肝になる部分のルールを理解するうえで、非常に有効だと思う。
こういうスタイルのゲームを好きになってもらうためにも、これは有効だ。
こーじ苑さんの試みは、本当に有効だと思う。
キックベースボールも野球の普及だ
こーじ苑さんも言っておられるが、キックベースボールは、「遊び」気分が横溢している。
これが素晴らしい。
本格的なスポーツではないからかもしれないが、きゃらきゃら笑いながらプレーをするのが基本になっている。
それがいいのだ。
日本では「遊び」はネガティブな言い方をされることが多い。
「遊び半分でやるなら、やめてしまえ!」
「これは遊びではない」
「遊んでいる暇があれば練習しろ」
日本のスポーツは、「遊び」を排除し、「仕事」と同格、あるいはそれ以上の「苦労」「真剣さ」を求めるものだとされてきた。
日本にスポーツが入ってきた明治時代、当時の支配者層は「遊びによってリラックスし、人間性を高める」という考え方を理解できなかった。
スポーツにかかわる人たちは、そういう人たちにも受け入れてもらうために
「これは遊びじゃなくて、武道と同じようなものです」
「西洋では遊びでしたが、日本では武士道に照らして改良します=和魂洋才」
「体を動かすのは、強い兵隊を作るのにも役立ちます」
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その形が戦後になっても続いていて、「遊びじゃない」スポーツのまま、ここまで続いてきてしまった。
しかし、社会が成熟し、人々が「量」ではなく「生活の質」を求めるようになってきて、日本のスポーツは世の中からかい離するようになった。
「血の汗流せ、涙をふくな」
「何のために?なんでそんな苦労しないといけないの?」
という時代になったのだ。
これまでの「道」と名の付く日本のスポーツは、選手が「道」に奉仕し、先輩、恩師、強度などのために、自らの持てる才能と努力を捧げるものだった。
しかしスポーツは本来、プレーする個々人が享受し、楽しむものだった。スポーツのために選手があるのではなく、選手のためにスポーツは存在したのだ。
今、がちがちで頑張っているスポーツは、サッカーを除いて、なかなかそういうパラダイムシフトが起きていない。既得権益が大きすぎて、変革ができない。
そうであれば、キックベースやその他の「優しい系」「ゆるい系」のスポーツから変革を起こすのもありだろう。
キックベースは間違っても「1000本キック」「グランド100周」みたいにならないでほしい。
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