アメリカ人男性の平均寿命は日本人より4歳低い76歳だ。88歳の死去は大往生と言えるだろう。

スペンサーは、ウィチタ州立大学から1949年にニューヨーク・ジャイアンツに入団した。

キャリアSTATS

D-Spencer


1年目はDクラスのマイナーチームに預けられ、2年目にジャイアンツ傘下のCクラスに。一時期カブス傘下のマイナーに預けられるも、1952年9月17日のシカゴ・カブス戦に8番三塁でメジャーデビューした。2番遊撃でアルヴィン・ダークがいた。

当時としては極めて大型の内野手であり、大いに期待され2年目には内野のユーティリティとして118試合に出場したが、3年目の1954年から2年間、朝鮮戦争の兵役に就く。

復員後、ジャイアンツに復活し、正二塁手に。当時のジャイアンツは、2歳年下のウィリー・メイズが売り出し中。カーディナルスのスター内野手だったレッド・シェーンディーストも加入しており、華やかなチームだった。
スペンサーは7番を打ち、打率は低いながらも勝負強い打撃で鳴らした。
また激しい走塁も売りで、巨体で相手野手を吹っ飛ばすこともあった。

優秀な成績とは言えないが、5年連続で規定打席に到達。1959年は阪神でプレーしたウィリー・カークランドとチームメイトだった。
オーランド・セペダ、フェリペ・アル―、ウィリー・マッコビーなど若い選手が台頭する中、1959年12月にレオン・ワグナーとともにカーディナルスにトレードされる。相手はのちに南海でプレーしたドン・ブラッシンゲームだった。

カーディナルスではスタン・ミュージアルのチームメイトとして遊撃を守ったが、翌年5月にトレードでドジャースに。三塁を守るが、控えに近い扱い。ドジャースではウィリー・デービス、フランク・ハワードがチームメイト。
1963年にリリースされ、レッズに入団するも再びリリーズされる。レッズではピート・ローズ、ヴァダ・ピンソン、フランク・ロビンソンとプレーした。

キャリアの終盤に日本にやってきたが、ここでの成績を見ると、キャリアハイはNPBだったのではないかと思われる。
1964年にいきなりベスト9、チームメイトのチコ・バルボンが日本の生活の手ほどきをした。
2年目には野村克也と激しいタイトル争いをした。10月1日からの南海との3連戦では、南海は歩かせる作戦に出たが、阪急はスペンサーを一番に据えて、打席を確保しようとした。しかし10月4日に交通事故にあって、野村に三冠王を取らしめた。この日のスポーツ紙は「野村三冠王確定」の見出しが躍った。
この年7月16日の西京極での近鉄戦でサイクル安打。日本人は知らなかった「サイクル安打」という概念を初めてもたらした。

1967年にはドラフトで入団した長池徳二が台頭。ウィンディ、長池、スペンサーで82本塁打の強力な中軸が生まれた。
1968年には衰えて、退団。以後2年間はプレーしていなかったが、1971年にコーチ兼任で復帰。成績は振るわなかったが、指導者として活躍した。

MLB時代の華麗なチームメイトを見てもわかるように、当時の最先端の野球を知る選手だった。その知識をNPBにもたらしてNPBで「野球博士」と言われた。

本人はNPBの殿堂入りを望んでいたと言われる。今の基準では難しいが、こういう偉大な外国人選手を顕彰する仕組みがあっても良いと思う。

スペンサーは殿堂入りを望んでいた



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