ジョージ・ブレットとともにロイヤルズを引っ張った強打者。


1945年生まれ。今年の年男。同い年にはロッド・カルー、ラリー・ボーワ、ドン・サットン、ジム・パーマー、日本では竹之内雅史、高田繁、大杉勝男、高井保弘、高橋重行、外木場義郎、中塚正幸ら。

1965年、ドラフト6巡目でシンシナティ・レッズに。

キャリアSTATS

H-MacRae


マイナー時代から打撃は目立っていた。

MLBデビューは1968年7月11日のジャイアンツ戦。7番二塁で先発し、2回の初打席にゲイロ―ド・ペリーから三塁内野安打。レッズの5番捕手はジョニー・ベンチだった。

打者としての才能は周囲も認めるところだったが、二塁手としては16試合で5失策。翌年には外野にまわったが、今一つの出来だったために、レギュラー定着はならなかった。

1972年オフに大型トレードでカンザスシティ・ロイヤルズへ。
タイミングの良いことに、翌年からDH制度がアメリカン・リーグで導入される。マクレーはその恩恵でレギュラーに定着し、打棒を振るうことになる。

1974年には打率3位、また1976年にはチームメイトのジョージ・ブレットと激しい首位打者争いを演じた。

DHというと荒っぽい打者の印象があるが、マクレーは三振が少なくシュアな打撃が売りだった。ラインドライブを打つ打者で、二塁打も多かった。

またアグレッシブな走塁でも知られる。二塁上での激しいアタックはしばしば物議をかもした。なかでも、一二塁間のラインを大きく外れて、相手の二塁手、遊撃手めがけてスライディングをするプレーは問題視され、守備妨害としてアウトを宣せられることになる。
今ではこのルールは「マクレー・ルール」として知られる。

30代に入ると次第に成績は下降線を描いたが、1982年、36歳のシーズンは絶好調で、27本塁打、136打点のキャリアハイを記録。打点王を獲得し、シルバースラッガーに輝いた。

2000本安打は1985年9月10日のカリフォルニア・エンゼルス戦。4番DHで先発し、1回にカーク・マカスキルからタイムリー二塁打。安打で出た僚友ジョージ・ブレットを本塁に返している。本人は三塁でアウト。いかにもこの選手らしい。

引退後は、指導者としてロイヤルズやデビルレイズの監督を務めた。



1980年鈴木啓示、全登板成績【苦しい時に働いていないんだから・・・】

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