戦後の中日の「顔」の一人だった名外野手。

1919年8月生まれ。同い年に千葉 茂、山本 英一郎、福士 勇、沢藤 光郎、白木 義一郎、飯島 滋弥、深見 安博、西村 進一、MLBではジャッキー・ロビンソン、ジョニー・ぺスキー、モンテ・アーヴィン、ビック・ラスキ。

福士勇のように戦前にプロ入りし、戦死した同い年もいるが、原田は中京商、明治大学、東洋商業を経て1948年に中日に入団。デビュー時、すでに28歳だった。

キャリアSTATS
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初出場は1948年5月8日、後楽園球場での巨人戦、2番中堅で出場し、八島米雄から初安打を打っている。
中堅はここまで茅野秀三が守っていたが、以後、原田が正位置に座り、規定打席に達する。

原田が目立っていたのはまず外野守備。広い守備範囲と抜群の強肩で投手を助けた。1950年の21をはじめ、7回も二けた補殺を記録している。
さらに長打は少ないもののシュアな打撃と、スタートの速い脚でもチームに貢献した。いわゆる三拍子そろった選手と言えよう。

1950、51年と3割をマーク。1954年にはやや力は衰えていたが、優勝、日本一に貢献した。なお、その当時は報道されなかったが1953年8月17日にサイクル安打を記録している。

デビューから9年連続で規定打席。

1000本安打は1955年7月20日の中日球場での大洋戦。5番右翼で先発し、服部茂次から二塁打。この年は前半は3割を超え、首位打者争いに絡む勢いだったが、8月以降打率が急落した。

1956年に原田督三(とくぞう)と改名。

一時期、天知俊一の後の監督候補にもなったが、引退後は中日のコーチを経て東海ラジオに社員で入社。定年まで勤めたが、退職の翌年に56歳の若さで死去した。


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