1950年代のスター選手。100万ドルの内野陣の要。

1924年4月生まれ。同年生まれには飯田 徳治、谷田 比呂美、天保 義夫、小松原 博喜、黒田 一博、今西 練太郎、藤原 鉄之助、土屋五郎、青田 昇 、MLBではラリー・ドビー、ギル・ホッジス、テッド・クルズースキー。

唐津中学、門司鉄道局から1948年、南海入り。

キャリアSTATS

C-Kizuka


山本一人が木塚など新人、若手選手を積極的に起用したのは、当時のチーム内に八百長が横行していたからだ。
そういう選手を排除し、新しいチームを作ろうとしたのだ。

初出場は、1948年4月4日の開幕戦、鳴海球場の大阪戦。7番遊撃で先発し、二塁打を打っている。

抜群の強肩と広い守備範囲で、たちまち屈指の遊撃手になる。
打者としても、小柄でパンチはないながらもこつこつ当てる打撃で、リードオフマンとして活躍。

2年目の1949年から、4年連続で盗塁王。特筆すべきは、成功率の高さだ。この当時は、盗塁死をあまり問題視していなかったために、低い成功率でも走りまくる選手がたくさんいたが、木塚はキャリアでの成功率が8割を超えている。また1950年、当時のNPB記録である78盗塁を記録した年の成功率は.907という驚異的なものだった。

めったに三振しない選手だったが、早打ちで四球は非常に少なかった。積極的な打法が売りだった。

6年連続でベスト9。
1000本安打は1956年6月17日の駒沢球場での東映戦、土橋正幸から。

球団は1957年の10年選手でのボーナス支払いを回避して、近鉄にトレード。立教大学の杉浦忠を獲得するのに大金を使ったことも大きかったという。飯田徳治も同じタイミングで国鉄に出された。
チームはこの時期「100万ドルの内野陣」から「400フィート打線」に陣容を変えつつあった。森下正夫、広瀬淑功と、若くてスピード感のある内野手も育ってきていた。

鶴岡一人は「必要とされているときに、外へ出してやるのも親心」と言ったが、モチベーションを失ったか、3年で引退した。

引退後は近鉄、東京でコーチ。南海には復帰しなかったが、大阪で開いた飲食店は確か「南海グリル」だったと思う。


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