「甲子園」があまりにも大きくなり、多くの人々を巻き込んでいるために、日本の野球は大きくゆがめられている。

「甲子園」の前身である全国中等学校野球選手権大会は大正時代に始まった。この大会は第1回から主催者の予想を大きく上回る成功を収める。人気の高まりにこたえて、甲子園球場が建設されると、その人気は日本的なものになった。
戦後になって、「甲子園」は、さらに盛り上がり、その他の野球とは別次元の、神聖にして犯すべからざるもののようになった。
"無形文化財"と揶揄する意見もある中、高野連も「甲子園の伝統を守る」ことを明言している。

しかしながら「甲子園」があまりにも大きすぎるために、日本の野球はスポーツとしてはいびつなものなっている。

スポーツは本来、人の成長にしたがってスキルアップしていくものだ。「生涯そのスポーツに親しむ」という本来の形でいえば、学生時代を経て、身体的にも精神的にもピークを迎える成人期に、照準を合わせて体力、技術を高めていくべきものだ。
ピークでのステージは人によって異なる。プロ野球に行く人もいれば、アマチュアでとどまる人もいる。草野球がピークのステージという人もいるだろう。
さらにピークを過ぎても、スポーツとのかかわりは続いていく。指導者になったり、シニアスポーツとして楽しんだり。
日本サッカー協会は「グラスルーツ」という考え方を打ち出しているがそこには「引退なし」という言葉が明記されている。いくつになってもサッカーを楽しむことができる環境をつくることを目指している。

スポーツは、本来、人間の心身の成長曲線に合わせたなだらかなカーブを描いて習得されるべきものなのだ(芸術や文化もそうだと思うが)。

しかし日本の野球は、野球少年も、多くの指導者も「甲子園」を究極の目標にしている。
もちろんその先にプロ野球や社会人野球を目指しているのだろうが、その前に「甲子園」で、最高のパフォーマンスをしなければならない。大会期間中80万人(夏)が詰めかけ、全国中継されるこの大舞台で、燃焼しつくすことが最終目標であるかのように見なされている。

そのために、高校球児たちは、本来あるべき成長曲線とは異なる、勾配の強い成長を求められ、そのために猛練習を強いられる。ありていに言えば「無理」をさせられるのだ。

その結果として、多くの選手は、とりわけ投手は生涯癒えない故障を抱えることになる。
幸運にもつぶれることなく高校を卒業し、大学、プロ、社会人と活躍の場を広げる選手もたくさんいるが、そういう選手でも肘の靭帯が摩耗しているなど、高校時代のハードワークの痕跡が残っている場合が多い。
日本人投手がMLBのメディカルチェックでほとんどひっかかるのは、このためだ。

「生涯スポーツ」として考えれば、あり得ないような指導が、高校の現場で行われているのだ。

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「甲子園で燃え尽きる」は、ふたつの意味であり得ない。
一つは、スポーツ本来の在り方からして、18歳でリタイアすることを前提とするのはあり得ない。
もう一つは、身体が損傷するリスクがあるにも関わらず、それを容認するのは、教育としてもあり得ない。「私だけは特殊な事情があるので認めてくれ」というのも、教育の平等性から考えてもあり得ない。

教育やスポーツ本来の在り方とは別次元の価値観が、幅を利かしている。そして野球をゆがめている。

日本人は「ここで死んでも本望」とか「この舞台で燃え尽きる」とかいう言葉を聞くのが大好きだが、どんな状況であれ、それは浅慮から出た言葉だ。それを賛美するのは無責任な態度だ。
「個人の勝手だろ」というのは、意見でさえない。ただの無関心だ。

少なくとも教育者であれば、責任ある大人であれば、「バカなことを言うな」というべきである。

「もう二度とこのスポーツを本格的にする気はない、だから怪我をしてもかまわないのでやらせてほしい」という言葉が、いかに愚かで、身勝手かということをみんなが理解すべきである。


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