私は、高校部活の取材をよくする。昨年も、全国トップクラスの部活の指導者に何人か話を聞いた。

選手のコンディションや、チームの状況、今季の目標などを聞くが、必ず最後に、選手の将来のことも聞く。

野球以外の指導者の多くは、
「全国優勝したとしても、それで飯が食っていけるわけではない。社会人に進んでも、指導者になっても、サラリーマンになっても困らないように、勉強をして、社会常識を身に着けてほしい。そしていつまでも、競技を愛好してほしい」という。
彼らとて、インターハイや全国大会のために24時間、365時間すべてを捧げている。その熱意は、野球と全く変わらない。
しかし、それでもアスリートであると同時に、ふつうの人間だという認識があるのだ。

とりわけ、野球との大きな違いは指導者も生徒も「高校で全てが終わるわけではない」という認識を持っているということだ。
全てとは言わないが、ほとんどの指導者は、ケガを押して試合に出場させるような無謀なことはしない。それによって、障害を負ったり、その後の競技生活に支障をきたしたりしては困るからだ。
当然のことだが、指導者はそういうリスクに対して責任を取ることができない。だから、無謀なトライアルは制止する。
今は、それが主流になっている。一部の相撲部など、そうでない部活もあるにはあるが、今は、野球以外ではほとんどなくなっている。

IMG_6098


IMG_4987


IMG_4403


他のスポーツの全国大会は、甲子園ほど注目されているわけではない。優勝すればそれなりに注目されるが、だからと言って、それで飯が食えるわけでもない。生涯が大きく変わるわけでもない。だからこそ、高校で競技生活を終わらせるわけにいかない。
甲子園は、はるかに大きく、注目度の高い舞台だから、野球だけは怪我を押して出場することが許される。一瞬の栄光のために、選手生命を投げうつことが容認されている。

そういう説明は可能だが、だとすれば、高校野球はスポーツを逸脱している。

野球は、多くの人々によって造られた、さまざまな「物語」を身にまとっている。「甲子園で燃え尽きる」もそうだ。「3年間球拾いだけの青春」や、「1000本ノック」などなど、無茶をしたり、我慢をしたりする物語が、こってりとまとわりついている。
こうした物語が、野球を他のスポーツとは異なる「特別のもの」に見せている。
しかし、それは「スポーツの物語」というよりは、当事者や周囲が勝手に思い入れて作った「人情話」にすぎない。多くはステレオタイプで、陳腐で、浅薄だ。

時代の変化、人々の価値観の変化とともに、スポーツに対する意識は変わってきている。スポーツは、一部の人間がかんかんになって打ち込むものではない。うまい下手にかかわりなく、みんなが楽しむもの、一生付き合うものになってきている。

野球が多くの人に忌避され、好きな人と嫌いな人が、くっきりと分かれるようになりつつあるのは、野球が本来のスポーツ以外の要素を、垢のようにこってりと身に着けているからだ。

垢まみれになるのが好きな人は勝手にすればいいが、そうした物語の衣を脱ぎ捨てて、純粋なスポーツとして再建する取り組みが始まらないと、野球の将来は暗い。



2016年牧田和久、全登板成績【あらゆるリリーフ承ります】

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!

好評発売中!