私の世代はなじみのある投手だが、どんな投手だったか、若い人は良く知らないのではないか。

倉敷商、明治大学からドラフト1位で1968年中日ドラゴンズへ。

キャリアSTATS

S-Hoshino


この年のドラフトは、空前の大豊作だったが、大学通算23勝の星野も目玉の一人だった。

1年目から規定投球回数に達し、勝ち星は8勝だったが防御率は13位。新人王には届かなかったが、2年目には200回を投げる。

ただし、星野は先発一本ではなく、先発、救援のかけもちだった。
中日は救援投手の使い方では先進チームであり、星野の前には板東英二が実質的に「リリーフエース」をつとめていた。
星野はまさに板東英二の後継者だった。
71年から2年間は、ほぼ救援投手に専念。72年は48完了を記録する。

当時は、チームがリードを奪うと、星野がリリーフカーでマウンドに上がり、闘志満々で相手を抑えた。星野はタフなリリーフだった。

セーブが導入された1974年には15勝に加え10セーブ。沢村賞を受賞する。

以後も先発、救援で獅子奮迅の活躍。先発一本になったのは選手生活晩年だった。

星野の後の鈴木孝政も先発、救援で活躍。中日の伝統だった。

ただし、この数字だけなら殿堂入りは難しかったはずだ。MVPもなし。最多勝もとらず。150勝にも届いていない。

監督成績

MNG


あふれんばかりの闘志とリーダーシップ。監督就任は既定路線だった。
2期、11年にわたって中日監督をつとめ優勝2回、Aクラス8回。名監督と言ってよかった。

この間、NHK解説者としても人気を博し、監督退任後はこのまま中日閥の長老株になるのかと思われたが、中日監督を辞した翌年に阪神の監督に就任。世間を驚かせた。

阪神では2年で優勝。星野は球団に掛け合って大型補強を引っ張り出すのがうまく、金本知憲、伊良部秀輝など大物を集めてV字回復を果たした。しかし体調を崩して退任。

北京五輪監督を経て、2011年楽天の監督に就任。3年目に田中将大の神がかり的な活躍もあって優勝。

現在は楽天球団の副社長。

北京五輪監督時代の横暴とも思える言動や、審判への暴力沙汰など、家父長的で古いタイプの野球人だが、その功績は間違いなく殿堂入りしてしかるべき立派なものだ。



2016年牧田和久、全登板成績【あらゆるリリーフ承ります】

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!

好評発売中!