スポーツは、確かに娯楽に属するコンテンツではある。しかし「事実」「結果」をそのまま伝えるのが基本と言うことを考えれば「報道」でもあるのだ。
もちろん、試合の緊迫感や盛り上がり、選手の情熱など「感動」も伝えるに値するものだろうが、それらはリザルトに付随するものと考えるべきだ。

料理に例えるならば、「報道」は「素材」であり、「感動」は調味料だ。あくまで「素材」の持ち味、魅力をそのまま提供するのが基本であり、「感動」は、それをより高めるためのものであるはずだ。
そもそも「感動」とは受けての個々人が勝手に感じるものであり、送り手が強要するものではなかったはずだ。

しかし、今のスポーツ報道の多くは「素材」が何だったかわからなくなるほど、「感動ソース」をかけまくる。

野球にかぎらず、スポーツは用具や環境が整備され、アスリートの体格や技術も向上して、非常に見ごたえのあるものになってきているが、それに反比例してスポーツ報道は、そうした「素材」の良さを伝えなくなっている。

象徴的に言えば、投手が投げるとき、今のカメラはしばしば、指先から投じられた球がミットに収まるまでの軌道を追いかけるのではなく、投手の顔を抜く。その表情をとらえようとする。

何度も言っているが、スポーツ報道に携わる人々が「スポーツの面白さ」を知らなくて、あるいはそれを伝える能力に自信が持てなくて、どうでもいい(と敢えて言うが)選手の表情を伝えて、無理からに「感動」を作り出そうとしているのだ。

今や「感動」は「笑い」とともに、テレビ番組の評価の二大通貨になった感がある。
毎日のように胸が悪くなるような「感動」をたたき売りする番組が流されている。個人的には「こういうのばかり見ていると馬鹿になりますよ」と言いたいが、同じ手法がスポーツ番組にも使われているのだ。

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中でも朝日放送の「熱闘甲子園」は、その最たるものだ。この番組は「素材」はわずかで9割がた「調味料」だけで造ったような番組だ。「感動ソース」をなめさせて、スポーツを見た気にさせようとしている。
高校球児の「涙」「汗」「友情」をステレオタイプで伝えて、「甲子園」を賛美して一丁あがり。
朝日放送、毎日放送は全試合中継をやめたが、「感動商売」は力を入れているのだ。
そのアナクロニズムと欺瞞は、濃厚だ。この番組には、「進め一億火の玉だ」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」(ついでに「パーマネントはやめましょう」)という戦前軍国主義時代のキャッチフレーズが、そのまますんなり当てはまってしまう。

戦前、朝日新聞は戦争邁進の旗振り役だったが、そのDNAがいまだにグループ内に潜んでいるのではないかと思う。

最初のころは、高校球児たちの日常を描いたドキュメントは、それなりに味わいがあった。しかし、年とともに「感動」の味付けが濃くなりに、ストーリーはワンパターンになってきて、「様式化」している。
そういえばTBSの「プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達」も最近はステレオタイプ化され、「人の不幸は蜜の味」の厭らしさが増幅している。

テレビ局は、視聴率を稼ぐことができるネタにしがみつく。二番煎じ三番戦時を繰り返すから、こうなっていくのだ。

しかし、朝日放送も報道機関である。高校球児の不祥事や問題が発生すれば、それを伝えなければならない。
「熱闘甲子園」で感動物語に仕立て上げた高校が不祥事を起こしたときに、どのような報道をするのか。
ましてや、もろ手を挙げて賛美している高校野球が、そのアナクロニズムと理不尽さによって、忌避されつつある現状など、絶対に伝えられないと思う。

朝日放送は朝日新聞の系列だ。つまり高校野球の主催者サイドなのだ。彼らが作る「甲子園翼賛番組」は、番組の体裁を取ってはいるが「番宣」「チラシ」の類なのだ。

こうした一方的な翼賛番組が、「甲子園」「高校野球」の実態を見えにくくしていることは留意すべきだと思う。


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