チャック・コナーズというあだ名があった。渋い内野のユーティリティプレイヤー。
船田和英、全本塁打一覧|本塁打大全
1942年5月生まれ。同年生まれに伊藤勲、土井正三、アーロン・ポインター、、森本潔、永渕洋三、徳久利明、MLBではトニー・ペレス、バート・キャンパネリス、ファージー・ジェンキンス、ジェリー・クーズマン。
浜松商、北洋水産から1962年巨人に入団。
キャリアSTATS
初出場は1962年10月2日、川崎球場の大洋戦、8番・二塁手として先発出場、この年は安打なし。
初安打は翌1963年4月14日、甲子園の阪神戦、須藤豊の代打で、9回表に村山実から左前適時打。
当時としては大型の内野手。二塁のポジション争いに勝ってレギュラーの座をつかむ。
若手の成長株として注目され、オールスター戦にも出場するが、1965年、土井正三が入団し、競争が激化して出場機会が減る。
1966年田中久寿男とのトレードで西鉄へ。西鉄では遊撃を守り、2番、6番を打つ。成績に波はあったが、中心選手として活躍する。
しかし1970年、「黒い霧事件」発生。永易将之から八百長の勧誘をされて断ったものの球団に報告しなかったとして、5月まで出場停止。船田は八百長料を受け取っていたこともあり、その後11月までの出場停止処分が科される。
1971年、停止処分があけて出場するも、球団との関係が悪化し、翌年、ヤクルトに移籍。
ヤクルトでは二塁、三塁、遊撃をこなすユーティリティとして活躍。バントも巧みで、非常に使い勝手の良い選手だった。
1000本安打は1976年10月12日、神宮球場の広島戦、6番三塁で先発し、2回裏に北別府学から中越二塁打。
1978年の優勝時には、角富士夫の控え三塁手として、渋い働きで勝利に貢献。
船田が西鉄の選手だったことも、ましてや巨人の選手だったことも知らない野球ファンの声援を受けた。
40歳近くになっても衰え知らずだったが、1980年に引退。
ヤクルトのコーチとなるも、1992年50歳で死去。
暫定版・通算セーブ数ベスト10【セーブ採用前の1950~1973まで】
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中!
浜松商、北洋水産から1962年巨人に入団。
キャリアSTATS
初出場は1962年10月2日、川崎球場の大洋戦、8番・二塁手として先発出場、この年は安打なし。
初安打は翌1963年4月14日、甲子園の阪神戦、須藤豊の代打で、9回表に村山実から左前適時打。
当時としては大型の内野手。二塁のポジション争いに勝ってレギュラーの座をつかむ。
若手の成長株として注目され、オールスター戦にも出場するが、1965年、土井正三が入団し、競争が激化して出場機会が減る。
1966年田中久寿男とのトレードで西鉄へ。西鉄では遊撃を守り、2番、6番を打つ。成績に波はあったが、中心選手として活躍する。
しかし1970年、「黒い霧事件」発生。永易将之から八百長の勧誘をされて断ったものの球団に報告しなかったとして、5月まで出場停止。船田は八百長料を受け取っていたこともあり、その後11月までの出場停止処分が科される。
1971年、停止処分があけて出場するも、球団との関係が悪化し、翌年、ヤクルトに移籍。
ヤクルトでは二塁、三塁、遊撃をこなすユーティリティとして活躍。バントも巧みで、非常に使い勝手の良い選手だった。
1000本安打は1976年10月12日、神宮球場の広島戦、6番三塁で先発し、2回裏に北別府学から中越二塁打。
1978年の優勝時には、角富士夫の控え三塁手として、渋い働きで勝利に貢献。
船田が西鉄の選手だったことも、ましてや巨人の選手だったことも知らない野球ファンの声援を受けた。
40歳近くになっても衰え知らずだったが、1980年に引退。
ヤクルトのコーチとなるも、1992年50歳で死去。
暫定版・通算セーブ数ベスト10【セーブ採用前の1950~1973まで】
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中!