西鉄全盛時代を彩った、俊足、シャープな外野手。
玉造陽二、全本塁打一覧|本塁打大全
1936年8月生まれ。同い年に田中 尊、古葉 竹識、中 登志雄、興津 立雄、太田誠、片岡 宏雄 、稲川 誠、若生 忠男、根来 広光、榎本 喜八、葛城 隆雄、MLBではハーモン・キルブリュー、ビル・マゼロウスキー、ドン・ドライスデール。
名門水戸一高から1955年西鉄ライオンズに。
キャリアSTATS

水戸一高時代には甲子園に出場。1年目から一軍に出場。開幕戦の3月26日の平和台球場のトンボ戦で、先発長坂衛の代打として出場。
初安打は4月3日の平和台球場の南海戦で、捕手永利勇吉の代打として宅和本司から記録。
スイングの鋭い左打者。流し打ちも巧み、俊足。外野手としても守備範囲が広かった。
リードオフマンあるいは6番打者として活躍。
当初は大下弘、高倉照幸、関口清治に次ぐ「4番目の外野手」だったが、大下の衰えとともにレギュラーとなり、外野の正位置(右翼、左翼)を獲得した。
1000本安打は1964年平和台球場の近鉄戦、三番左翼で先発し、安打を記録。
30歳を過ぎても衰えなかったが、1960年代半ばに西鉄は経営不振に陥る。甲子園優勝投手の池永正明と尾崎将司を獲得するために1億以上の金を使ったことが大きかったとされる。
1965年には西鉄西亦次郎社長の提唱によってドラフト制が導入される。
しかし経営不振は続き、1967年、働き盛りの玉造はトレードを拒否、実質的にリストラされたと言われる。
1980年星野仙一、全登板成績【チーム低迷と共に低迷、わずかに6勝】
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初安打は4月3日の平和台球場の南海戦で、捕手永利勇吉の代打として宅和本司から記録。
スイングの鋭い左打者。流し打ちも巧み、俊足。外野手としても守備範囲が広かった。
リードオフマンあるいは6番打者として活躍。
当初は大下弘、高倉照幸、関口清治に次ぐ「4番目の外野手」だったが、大下の衰えとともにレギュラーとなり、外野の正位置(右翼、左翼)を獲得した。
1000本安打は1964年平和台球場の近鉄戦、三番左翼で先発し、安打を記録。
30歳を過ぎても衰えなかったが、1960年代半ばに西鉄は経営不振に陥る。甲子園優勝投手の池永正明と尾崎将司を獲得するために1億以上の金を使ったことが大きかったとされる。
1965年には西鉄西亦次郎社長の提唱によってドラフト制が導入される。
しかし経営不振は続き、1967年、働き盛りの玉造はトレードを拒否、実質的にリストラされたと言われる。
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同じように、補強選手の口をさがしてクビにしようとする選手との交渉を長引かせる手法を球団は河合捕手や植田外野手にも当時行い、クビにしてます。
当時の週刊ベースボール1968年2月12日号から