侍ジャパン監督としての小久保裕紀は、4年間で40試合を戦い、30勝10敗。弱い相手とも試合をしたが、名将と言ってよいと思う。
小久保裕紀は、常設された「侍ジャパン」の初代監督だった。

2013年WBCまでの野球日本代表は、イベントごとに監督と選手が召集された。WBCが終われば、しばらく監督は決まらなかった。
山本浩二が日本代表の監督になったのは、2013年WBCの4か月前の2012年11月のことだった。

2013年WBCが準決勝敗退に終わったことを受けて、「侍ジャパン」の常設化が提議されたのだ。

しかし、それは表立っての話である。「侍ジャパン」の常設化には、全く別の事情も隠されていた。
2012年まで、各球団はNPBに毎年1億円ずつの「会費」を支払っていた。各球団にとっては、これが大きな負担となっていた。球団は、NPBへの会費の削減を求めていた。
話し合いによって、「侍ジャパン」を常設化することと引き換えに、各球団の会費を1億円から1000万円に引き下げることが決まった。

侍ジャパンを運営する会社として、12球団とNPBが出資してNPBエンタープライズが設立された。社長は日本テレビ出身者。侍ジャパンは試合をしたり、テレビの放映権やグッズを売ることで収益を得て、その中からNPBに利益を還元する、という仕組みだ。
各球団は選手を貸し出す。侍ジャパンはその選手で「金儲けをする」ということなのだ。

設立時に「これから侍ジャパンは13番目の球団になる」と発表されたが、その真意はそこにあった。
もちろん常設化によってチームを強化するという側面もあったが、それ以上にビジネスとしての事情もあった。

これまでの侍ジャパン、日本代表はイベントごとの召集であり、選手の拘束期間も短かった。また監督も讀賣系を中心に人選され、お客さん的な扱いだった。報酬も試合、大会ごとのものだった。

しかし小久保裕紀は、そうした背景はなく、NPBが独自に雇用した。
また4年間、年俸が支払われた。コーチも同様だった。前回までのコーチには東尾修、梨田昌崇、伊東勤、山田久志などの大物が顔をそろえたが、今回、コーチは権藤博を除いて監督経験者はなし。小物感が否めなかったのは、それだけの年俸が支払えなかったからと思われる。

チームから選手を借りるうえでも、関係が変わったと思われる。新しい侍ジャパンは、より長期的に選手を借り出すことになる。小久保監督は選手の召集、起用においても前任者よりも気を使わざるを得なかった。

しかもNPBにおいては「侍ジャパン」は、主流派とは言えなかった。NPBにはもともとビジネスの発想がなかった。讀賣系の記者上りが中枢にいて「事務局」という色合いが強い。
侍ジャパンの常設化に当たっては、外部から人材を招聘するとともに、各球団から営業、マーケティングの専門家を出向させた。そういうスタッフと、これまでのNPBの中枢とは肌合いが違った。NPBにとっては「常設侍ジャパン」は新たな財源ではあったが、機構の全面協力があったとはいいがたい。

NPB、そして各球団には「改革派」と「守旧派」がいると言われる。侍ジャパンは「改革派」の希望の星ではあったが、その基盤は盤石とはとても言えなかった。

出向者や外部招聘者は2年程度で侍ジャパンを離れた。スタッフも手薄になった。
オールジャパンと言いながら、小久保裕紀監督のバックアップ体制はかなりお寒いものだったと言って良いだろう。


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4年間、事業としての「侍ジャパン」は、大きな実績を残した。観客動員でも、売り上げでも、収穫があった。
選手の強化については、MLB選手がほとんど不参加な中で、できることはやったと思う。

しかし、アメリカラウンドでのマネジメントのまずさ。とりわけ猛暑のアリゾナで練習試合をして、中1日で気温15度のロスで決戦に臨まなければならなかったのは、酷なことだった。
小久保監督は、練習試合の後
「そう決まっているのだから、それに従うしかない」と言ったが、その言葉に彼の立場、権限がはっきり見て取れる。監督として「こうしてくれ!」と強く言えないもどかしさがあったのだ。

敗戦が決まったその日に、小久保裕紀は自ら「契約満了」であることを口にし、退任を発表した。
「もうこりごり」とまではいかないだろうが、口に出して言えない不満もあったのだろう。

野球の未来は、間違いなくこのユニフォームに託されている。常設「侍ジャパン」を野球界全体が「われらのチーム」と思う日がこなければならない。




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