桑田真澄は、体罰について野球選手にアンケートを取ったことがあるが、かなり多くの人が「自分は体罰を与えたことはないが、体罰は場合によって必要」と回答したことにショックを受けたという。
昔の話ではない。今の話だ。
今、プロ野球でプレーしている選手、指導者の中に、そのように思っている人が一定数いるという事だ。
そういう人が自ら手を振り上げる可能性はほとんどないと思うが、体罰、暴力を見聞きした時に積極的に止めたり、注意したりしない可能性はある。

私は以前在籍した会社で、不心得な(というより破廉恥な)行動をした社員を、深夜に社長が殴打するのを見ていたことがある。その社員が組織上私の部下だったからだ。
社長はそういう折檻を度々していたようで、骨折したり外傷などが体につかないように平手で社員の顔を15分ほど執拗に殴り続けた。社員は「もう助けてください」と懇願した。私も制止した。社員の顔は倍ぐらいに膨れ上がった。その男もひどかったが、社長は最低だった。

私はその男をタクシーに乗せ、家まで送った。そのときに「警察に行くか?俺が証言するが」と聞いたが「いや、僕が悪かったから」とその男は言った。
驚くべきことに、翌日以降、その男は社長の腰ぎんちゃくのようになり、かしづくようになった。

私はすぐにその会社をやめた。

動物実験で過酷な実験に供せられた動物は、その後、実験員により強く依存し、なつくともいわれている。

暴力など過酷な体験をすると、被害者の多くは、加害者に服従するのだ。

おそらく、野球部など部活の体罰の「効能」は、これだろう。
気持ちが弱かったり、あまりものを深く考えなかったりする選手は、指導者に体罰を加えられると、それ以降、分別を判断することなく絶対服従するのだ。

部活指導者が体罰を肯定するのは、殴ったり蹴ったりした方が、選手が言うことを聞くからだ。
おそらく殴られた選手は、恐怖心によって、思考を停止し、絶対服従することによって自らを守ろうとするのだ。

落合博満が東洋大の野球部をやめたのは体罰のせいだったと言われているが、それは彼が野球人には珍しく「まとも」だったからだろう。

以前に書いたが、運転免許教習所の指導員が「野球部員は一番教えにくい」と言うのは、何を聞いても「はい、はい」と返事はするが頭には何も入っていないことが多いからだった。可愛そうだと思うが、彼らは殴られ、怒鳴られているうちに、目上の人に服従する習慣が染みついてしまったのだ。

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日本の軍隊もまさに、この方式で組織されていた。
多くの兵卒は、上官に体罰を与えられることの恐怖で思考を停止し、死地に赴いたのだ。「殴られるより死ぬ方がましだ」という倒錯が起こっていたのだろう。
日本人は勇敢だと言われるが、実際には「自分を見つめる」「自分の命の重さを感じる」勇気さえもたない臆病者の集団だったのだ。

暴力は、多くの人の思考を停止させ、まともな判断能力を眠らせる。だから禁止すべきなのだ。
「教育熱心のあまりの暴力」「情熱のあまり手が出る」というのは、うそっぱちだ。
暴力をふるう指導者は、その意味を知っている。人の人間性を殺し、絶対服従する「動物」に変えるために暴力をふるうのだ。
どんな小さな暴力も許してはならないのは、暴力が、教育ではなく調教の手段だからなのだ。

「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉は、指導者の暴力には当てはまらない。彼らは確信犯的に暴力をふるう。まさに悪党だ。だから絶対に許してはならない。
体罰は「人」を「畜獣」に変えてしまうから、許してはならないのだ。

しかし「体罰」について肯定的にとらえる指導者がまだたくさんいる中で、個別の事案をあげつらっても効果は薄い。ましてや過去の案件は蒸し返して責めることもできない。

極論すれば野球界は「体罰肯定社会」なのだ。

その根本の全面改革を、現場に徹底させなければならないのだ。部活の現場には革命が必要なのだ。


開幕戦本塁打王は誰だ!(後編)

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