たまたま今春、ソフトバンクのキャンプを取材していて、松坂大輔がB組(2軍中心)からA組(1軍中心)に異動した日にぶつかった。
投内連携に参加していた。
たくさんの報道陣のカメラが彼を追いかけていたが、松坂はこころもち痩せていて、やや緊張気味だった。

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松坂は五十嵐亮太や東浜巨などの投手と比べてもそれほど大きくなく、その上なで肩で小さく見えた。

この時は、キャンプでの何百球もの投げ込みが終わった後。調子を落としてB組で調整していた。

このあとのオープン戦では7回無安打無失点の試合も含め、4試合18.1回を投げて自責点2.95という成績を残し、ローテには入ることができなかったものの先発候補として二軍で調整をしていたはずだった。

しかし松坂はファームでも登板なし。マウンドに上がるめどはたっていない。



最近読んだ「豪腕」によれば、松坂はいまだに「投げ込むことで制球力を作る」と信じているという。
トミー・ジョン手術以降も、早く投げたがり、投げられるようになると「投げ込み」をしたがっていたという。

この春の「投げ込み」は、まさに松坂大輔にとっては「復活へ向けたステップ」であり、不可欠の過程だったのだろう。

3年12億円と言う年俸に応える働きをするためにも、絶対必要だったのだろう。

ようやく投げられるようになった春の時点で、医師やトレーナーの忠告を受けて慎重にリハビリをしていたら、そして間隔をあけて、少しずつ投球数を増やしていれば、松坂は今頃、マウンドに復帰していたかもしれない。

松坂の肘や靭帯は、他のトミー・ジョン手術をした投手に比べてもコンディションが非常に悪いのだと思う。
腫れ物に触るように扱うべき手術後の肘を、松坂は「スパルタ」で鍛え上げようとした。そして、それに失敗したのだ。

松坂世代のフラッグシップたる松坂大輔は「自分の考え方、鍛え方が間違っていた」ことを認めることができなかったのだろう。

今後、彼の肘や肩が回復する可能性はあるかもしれないが、彼の「考え」が変わらない限り、もうマウンドに上がることはないのではないか。

彼を反面教師として、投手の健康を守る取り組みを進化させるべきだろう。


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