山あり谷あり、野球人生を萌えつくした名物選手。
1957年10月生まれ。同い年に北別府 学、木下 智裕、 尾花 高夫、水上 善雄、岡田彰布、篠塚利夫、高橋慶彦。MLBではルー・ウィテカー、カーニー・ランスフォード、デーブ・スティーブなど。

北九州市立戸畑商からドラフト5位で近鉄に入団。

K-Yamamoto


以下は、私が山本和範に3年前にインタビューした内容をそのまま掲載する。


“まだやれる”、自分を信じ、ただひたすらに

お前、赤いユニフォーム、似合うとらんなあ

山本和範は、1957年、福岡県小倉市(現北九州市小倉区)に育った。戸畑商業高校を経て1977年ドラフト5位で近鉄バファローズに入団。入団当初は左腕投手だったが、打撃のセンスを買われて外野手に転向する。
名将西本幸雄が率いる当時の近鉄バファローズは強力打線が売り物。外野には首位打者を獲得した佐々木恭介、切り込み隊長平野光泰、スラッガーの栗橋茂と一騎当千の猛者が揃っていた。この3人は盤石のレギュラーだった。
山本の打撃センスは、打撃コーチの山本一義など一部の指導者には評価されていたが、なかなか一軍昇格のチャンスが巡ってこなかった。
入団4年目に初めて一軍でプレーしたが、その後2年で一軍出場は47試合にとどまり、38打数6安打1本塁打と結果を残すことはできなかった。
1982年には、再び一軍試合出場は0となり、オフには戦力外を通告される。
このとき、山本は26歳。このくらいの年齢で野球に見切りをつける若者はたくさんいる。サラリーマンや自営業など、第二の人生を考えるにはちょうど良い年齢かもしれない。
しかし彼はそうは思わなかった。
「自分はまだやれる、試合にさえ出れば打てる、いう自信があったんですわ。実際にバットも振れてましたし、ボールも見えていた。まだまだ、と言う気持ちがありました」
そんな山本にチームメイトの久保康生(現阪神タイガース、ファームチーフ投手コーチ)が「バッティングセンターの仕事があるけど、やらんか」と声をかけた。久保の紹介で山本は、大阪府の北部、池田市のキンキクレスコ・池田バッティングセンターに勤める。
そこへ高校の先輩で、南海ホークスのマネージャーだった小川一夫(現、福岡ソフトバンク・ホークス編成・育成部長)から電話があった。
「こんど一軍の監督になった穴吹(義雄)さんが、うちに来たらどうか、言うとるぞ」
今は、違うチームの選手がスタジアムで親しげに話すのは珍しいことではない。それどころかオフに違う球団の選手同士が合同自主トレをすることさえ一般的になっているが、当時は「敵のチームの選手と口をきいてはいかん」と言う不文律があった。違うチームの選手や指導者と交流することなどもってのほかだった。
だから山本和範は、穴吹のことはほとんど知らなかった。しかし穴吹は二軍監督時代、山本の打撃に注目していた。
「二軍の試合で、グランドで顔を合わすと穴吹さんは“お前、赤い(近鉄の)ユニフォーム、似合うとらんなあ”とよく言われました。なんでそんなことを言うのかなあ、と思っていましたが」
そういう経緯で、山本は南海ホークスの一員になる。
巷間、山本はバッティングセンターで1年近く勤めていたことになっているが、実際には1か月ほどで声がかかったという。見る人は彼の素質、才能をちゃんと見ていたのだ。

迷ったらいつでも“あ”に戻る

穴吹は、山本に、一流打者の素質を見出していた。そして打撃センスに加えて、当時の南海の選手にはない「明るさ」「威勢の良さ」を感じていた。
「あのころの南海は、野村克也監督が退任されて、広瀬叔功監督、穴吹監督と代わりましたが、チームは低迷し、選手も何となく元気がなかったんです。門田博光さんと言う大打者はおられましたが、黙々と練習をするタイプの人でした。チーム全体がおとなしかったんですね。穴吹さんには“お前がベンチを盛り上げてくれ、元気にしてくれ”と言われました」
山本は風貌から「ドラ(ドラキュラのこと)」と言うあだ名があった。新参だったが山本は「おいドラ」「ドラちゃん」とすぐにチームメイトと仲良くなった。
山本和範はここで、山本一義と再会する。山本一義も近鉄から南海に移籍し、打撃コーチを務めていたのだ。広島カープの強打者だった山本一義は、落合博満、金本知憲などの強打者の師匠として知られる名伯楽。南海では、27歳の山本和範を徹底的に鍛え上げた。
「近鉄の二軍時代は、エンジンの取り付け方を教えていただいたようなもんです。打撃の基本を教えてもらいました。南海に移ってからは、エンジンにオイルを差してもらったような感じです。それでエンジンがぐんぐん回転するようになりました」
一般的に山本和範は、チームの士気を鼓舞するムードメーカーだと言われている。確かに陽気で「勢いで打つ打者」と言うイメージがあるが、玄人筋には「完璧な打撃フォームで打つ打者」という定評があった。シャープでシュアな打撃が高く評価されていたのだ。データで見ても、山本は強打者の割に三振が少ない。確実性のある打者だったのだ。
もともとの打撃センスに加え、南海で山本一義に磨かれて打撃フォームを確立したことが、大成につながった。のちに各球団の打撃コーチは若手打者に「山本和範の打撃フォームをお手本にせよ」と教えるようになる。揺るがない打撃フォームを持っていたから、40歳を過ぎても活躍することができたのだ。
「山本一義コーチに鍛えてもらったから、その後の私があったと思います。打撃で迷ったら、そのころの教えに戻りました。いつでも、あいうえおの“あ”からやり直して、基本を取り戻したんです。それが私の強みだったと思います」

若いころの山本和範は、先輩選手たちのすさまじい練習ぶりを目の当たりにしてきた。
近鉄時代の先輩、吹石徳一は、フローリングの床にくっきりと足跡が残るまで素振りを続けたという。
「畳が擦り切れるほど素振りをする、と言いますが、柔らかな畳が擦り切れるのは、大したことじゃありません。吹石さんは固いフローリングの床がへこんで跡が付くほど振ったんです。プロの練習は凄いなあと思いました」
南海に入ってからも、門田博光のすさまじい精進ぶりを目の当たりにしている。
「若いうちは、当たり損ねでも足でヒットにすることができます。でも門田さんはアキレス腱を断裂している。足が使えないんです。きれいな当たりを打たないと、ヒットにはならない。だから故障してからの門田さんは、純粋に打撃一本で成績を残されたんです。これは本当にすごいと思う。及ばずながら、私も門田さんに追いつこうと一生懸命練習しましたよ」

新生ホークスの頼れる主軸打者に

1986年には外野手としてゴールドグラブ賞に輝く。投手出身だけあって肩も強かった。
この年にははじめてオールスター戦に出場。後楽園で行われた第1戦に2番右翼で先発した山本は、5回に決勝の二塁打を打つなど2安打1盗塁の活躍でMVPに輝いている。

30歳を超えたころ、山本和範はリーグでトップクラスの打者の一人に数えられるようになる。長距離打者ではなく、バランスの良い中距離打者。またいいところで殊勲打を打つクラッチヒッターとしても知られた。
1988年は、門田博光が40歳で二冠王、MVPに輝いた年だが、山本も打率.321、21本塁打と素晴らしい活躍をしている。
この年のオフに南海電鉄は球団をダイエーに身売りし、本拠地を福岡に移転する。
「ダイエー・ホークスのお目見え会見をするときには、チャーター便の飛行機で福岡入りしました。そしてその会見にだけ着る球団のマークの入ったジャケットも作ってくれました。南海時代にはそんなものはなかったから、大したものだと思いましたよ」
福岡は山本和範にとっては、地元である。しかし、故郷に帰ることができてうれしいと言う感慨はあまり湧かなかったという。
「小さいころ、西鉄ライオンズの試合をよく見に行きましたが、そのころの平和台球場や小倉球場の観客は、ライオンズが負けかけるとビール瓶をグランドに投げ込みよったんです。試合が終われば、グランドに乱入する。九州の客は怖い、というイメージがありましたから、心配の方が大きかったですね」
しかしダイエーはこれまでにない高いレベルの観客サービスを行い、球場の雰囲気を一変させた。
「南海時代にライオンズ戦で平和台に遠征すると、公式発表は3000人でも、実際には観客が300人くらいしかおらんことがよくありました。売れている年間指定席も観客数に数えてたんですね。指で一人、二人、と数えることができたくらいです。
ダイエー・ホークスは本当に、たくさんお客さんが来るようになりました。それに昔の九州の客席は、酔っ払いが多くて荒れていたんですが、ダイエーでは、家族連れが安心して野球観戦ができるようになりました。えらいもんだなと思いました」
ダイエー・ホークスは、球場の整備こそ進んだが、チーム力の整備はかなり遅れた。
相変わらずBクラスが続いたが、そんななかで山本は頼れる中軸打者として活躍を続けた。
1989年には二度目のオールスター出場を果たす。神宮球場で行われた第1戦でも本塁打を放つ。大舞台でめっぽう強いのも山本の特徴だった。
新生ホークスは、関西や関東など他地域の選手が多かった。数少ない地元出身の山本和範(94~95年のみ登録名はカズ山本)は、ホークスきっての人気選手となった。
南海ホークス、福岡ダイエー・ホークスの13年間の通算成績は、4271打数1223安打145本塁打、打率.286 ,主力打者と言うにふさわしい成績だった。

38歳になっても“まだやれる”

1995年、山本は37歳になっていたが、前年にも打率.317で打撃2位になるなど、衰えはみじんも感じさせなかった。
この年に、王貞治が監督として福岡にやってきた。
「私らが子どもの頃は、福岡県では地元ライオンズの試合はラジオだけ。テレビではやっていませんでした。テレビの野球中継は巨人戦だけでした。大阪など地元に人気球団がある地域は別でしょうが、地方の子どもにとって、野球と言えば巨人。みんな巨人ファンでした。そして野球選手と言えば王さん、長嶋さんでした。その王さんが監督で来て下さる。そりゃ張り切りましたよ」
しかしこの年4月、山本は試合で右肩の亜脱臼をする。治療をして復帰することはできたが、成績は急落した。いつもにも増して頑張ろうと思ったが、裏腹なことに長期戦線離脱。王監督の期待に応えることはできなかったのだ。
高齢、高年俸。球団としては、山本和範に見切りをつけて、若返りを図りたかった。このオフに自由契約を申し渡される。
すでに38歳。キャリアは18年。十分に実績を残し、ホークスの球団史に名を残す存在になっていた。「ここらへんが潮時」と引退を表明しても何ら不思議はない状況だった。
しかし山本和範は、なお現役続行を宣言した。
「まだやれる、と思ったですもん。故障はしましたが、完治すればまだバットが振れる。まだいい打撃ができる、そう思っていました」
山本に声をかけたのが、近鉄バファローズの新監督に就任した佐々木恭介だった。
「佐々木さんは、私が近鉄に入団した時に外野のレギュラー、それこそ雲の上の人でした。新人時代のあるとき、なぜか私を食事に誘ってくれたんです。先輩の吹石徳一さんが“佐々木さんがメシ行かんか、言っている”と呼んでくれました。先輩選手と食事をしたのは初めてでした。何を話したかは覚えていませんが、私が活躍するということは、こうして食事をおごってくださる佐々木さんのポジションを奪うことだ、プロ野球と言うのは凄い仕事だな、と思ったことを覚えています」
自身も首位打者を取るなど一流の打者だった佐々木は、年齢を重ねても全く崩れない山本和範の打撃フォームに注目していたのだ。
形式上は入団テストを受けたことになっているが、実質的には佐々木新監督に誘われて、山本は実に15年ぶりに近鉄のユニフォームに袖を通した。
背番号は何と「92」。
「南海時代の29をひっくり返したんですが、空いているというからそれにしたんです。昔はレギュラー選手は一ケタの若い番号をつけることが多かったですが、私はそれにはこだわらなかった。ただ一からやろうと言う気持ちでしたね」
近鉄での山本は、代打に廻ることが多くなった。これが彼に新しい境地を開かせた。
「これまで4打席、5打席のうちで結果を出せばよかったのが、1打席で決めなければならない。これは大変なことだと思いました。でも、それだけ集中することもできる。代打稼業をやるようになって、私の打撃はまた進化したと思いました。
今年、中日の小笠原道大君が、代打で大活躍しています。彼は日本ハム、巨人の時代は中軸打者で凄い記録を残しています。そんな大選手が代打で勝負をするのは、大変な覚悟が必要だったと思います。でもそれで結果を出している。大したものです。今、小笠原君は充実しているんじゃないですか」
背番号「92」、代打山本和範は、しばしば殊勲打をものにした。大阪ドーム(現京セラドーム)の近鉄ファンは、久々に帰ってきた山本和範に大声援を送った。
すでに時代はイチローや松井秀喜が活躍する時代に。野球のスタイルも、選手の考え方も大きく変わっていた。
「でも、私は、1994年、一時的にイチロー君を抜いて、打撃ランキングのトップに立ったことがありますよ」山本はそういうと、朗らかな笑い声を立てた。

96年、38歳の山本は、5度目のオールスターに選出される。福岡ドームでの第1戦、6回に小久保裕紀の代打で打席に立った山本は、藪恵一から3ランホームランを打ち、MVPとなる。年齢を重ねて、勝負強さはますます研ぎ澄まされていったのだ。

進退は、まだ決めてないよ

1999年、41歳。山本和範は出場機会がないまま戦力外通告を受ける。このときにはNPBの現役最年長選手になっていた。
この年の9月30日、シーズン初めて現役登録をされた山本は6番指名打者でスタメン出場し、9回表に決勝のソロ本塁打を打っている。
相手は、古巣のダイエー・ホークス。すでに優勝を決めていた。投手は14連勝中だった2年目の篠原貴行。山本は篠原の連勝をストップさせた。山本の一発で、篠原は松坂大輔との最多勝争いに敗れる結果となった。また最高勝率のタイトルは取ったが、史上二人目の「勝率10割」は夢と消えた。
大好きだった王貞治監督の目の前で、山本和範は、野球選手生活最後の輝きを放って見せたのだ。
この日は、中日ドラゴンズがセ・リーグの優勝を決めた年だったが、各紙は山本の「奇跡のパフォーマンス」を見出し付きで取り上げた。
球場でのインタビューで山本はこう言った。
「41歳がこの広い福岡ドームでホームランを打った。記録には残らないかもしれないが、記憶に残ればいいよ。(進退は)まだ決めていないよ」
すでに戦力外通告を受けていたが、山本は「まだやれる」という意識はあったという。その気持ちが、ラストボールをスタンドに運ばせたのだろう。

しかし彼に声をかける球団はなく、ようやく山本和範は、23シーズンに及ぶ長い野球生活に終止符を打った。

「とにかく野球が好きで、一生懸命やってきた。そして“自分はまだやれる”と言う気持ちをずっと持っていた。だから、周囲の人が何と言おうと、現役にこだわったわけです。やはりしっかり練習をして、自分の打撃を磨いてきたからそう思えたんですね。
昨年までDeNAにいた中村紀洋が、今、現役続行を希望して浪人していますが、ノリの気持ち、本当によくわかります。彼も野球が好きで、やりたくて仕方がないんです。ただそれだけの人間です。いいやつなんですよ。
最近は選手寿命が延びて、40歳以上の現役選手がたくさんいます。トレーニングや自己管理ができているからでしょうが、基本は“野球が好き”だからではないでしょうか。彼らの気持ち、大切にしなければいけないと思いますね」


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