一昨日のブーマーに続き、日本に最も適応した外国人選手の一人。

ボビー・マルカーノ、本塁打大全
1951年6月生まれ。同い年に藤波 行雄 、鍛治舎 巧、木下 富雄、新浦 壽夫、福間 納 、鈴木 葉留彦、ゲーリー・トマソン、栗橋茂、柳田 豊、有田 修三、加藤 博一 、スティーブ・オンティベロス(野手)、河埜 和正、八重樫幸雄、岡持和彦、佐野仙好。MLBではデーブ・ウィンフィールド、デーブ・パーカー、バディ・ベル、バート・ブライレブン。

ベネズエラ出身。MLBで1562安打し、オールスターにも4度出たマニー・トリーヨ(フルネームはJesus Manuel Marcano Trillo)は、1歳上の父方の従兄。エンゼルスの遊撃手で53安打した同い年のオルランド・ラミレス(フルネームはOrlando (Leal) Ramirez)は母方の従兄。
その他にも野球関係者の親せきは多い。

1969年にレッズに入団。

キャリアSTATS

B-Marcano


体が小さく、非力だったのでなかなか出世できず。チームも2つ変わった。しかし日本に来る直近はAAAで好成績を上げており、翌年はMLBにデビューする可能性は高かったのではないか。

AAAソルトレイクのチームメイトにはのちヤクルトでも同僚になるダン・ブリッグスや従兄のオルランド・ラミレスもいた。

1975年に阪急に入団。

キャンプから好打を飛ばして注目され、開幕スタメン。

初出場は、1975年4月5日、開幕戦、西宮球場の近鉄戦、6番・二塁手で先発出場。初安打は翌6日、ダブルヘッダーの2戦目、7番二塁で先発し、3回裏に加藤英夫から。

人懐こい性格、チャンスに強く、好守でも貢献し、人気者となる。

日本語を覚え、日本食を口にするなど、日本文化も積極的に学び、チームメイトからも愛される。「日本人の血が混じっている」と言われたこともある。

同期入団は、俊足のバーニー・ウィリアムス。「二人とも当り」という評判だった。

当時二軍監督だったロベルト・バルボンがなにくれとなくマルカーノの面倒を見たという(あの珍通訳「うれしいらしいわ!」は、ブーマーが最初だったと記憶するが)。

長池が衰えた頃であり、打順は4番加藤秀、5番森本に次ぐ6番が多かった。森本が移籍してからは4番を打つことが多くなる。

中距離打者だったが、1978年には打点王を獲得している。

浅黒く、精悍な体つき。肩も強く、守備範囲も広かった。30歳前後から眼鏡をかけるようになる。外国人選手ではあったが、「阪急の一員」という印象があった。

1000本安打は、1982年7月2日、西武球場の西武戦、4番二塁で先発し、5回表に東尾修から左中間二塁打。

1983年、ブーマーの入団と入れ替わりにヤクルトに移籍。ここでも2年間はレギュラーとして活躍するが、85年、チームは最下位になり、契約解除された。まだ34歳、日本人選手ならまだやれたはずだ。

引退後もスカウトとして日本との絆を保っていたが、1990年、39歳の若さで肺がんのため死去。
阪急ファンだけでなく、多くの野球ファンにショックを与えた。

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