王貞治と同時期、MLBで強打の一塁手として知られた。
1938年1月生まれ。同い年にヴァダ・ピンソン、ビリー・ウィリアムス、ゲイロ―ド・ペリー、ジム・カート。日本の同年早生まれには坂崎一彦、種茂 雅之 、米田 哲也、近藤昭仁、馬場正平も。

セントラル高校から1955年、ジャイアンツ傘下に。ニグロリーグは知らない世代だ。
キャリアSTATS

W-McCovey


プロ入りは17歳。長打を発揮し、1959年、つまり王貞治のデビュー年にメジャーデビュー。7月30日のフィリーズ戦でいきなり4打数4安打2三塁打、以後も猛打をふるってわずか52試合で新人王に選ばれる。当寺は左翼手。

しかし規定打席に達したのは25歳の時。左投手が極端に打てず、ハーベイ・キューンと併用される。

1963年、本塁打王になり、7歳上のウィリー・メイズとMM砲を組む。この時期までは打撃も荒っぽく、三振が多い打者だった。

しかし1965年、オルランド・セペダを放出して一塁にコンバートされたころからじっくり投手を見て攻略する怖い打者になっていく。

6年連続30本塁打、2年連続二冠王、1969年にはMVPに輝く。衰え始めたメイズに代わってチームの主軸となる。ボビー・ボンズとともに中軸を打った。

パワーは抜群、また満塁本塁打は18本も打っている。勝負強い打者だった。

長身、馬のような長い顔。長い脚。優しい表情で長者の風格があった。ただ膝が悪くて、フル出場はなかなかかなわなかった。

ポストシーズンは2年だけだが1971年の地区シリーズでは4割を打った。

1973年オフ、パドレスにマイク・コールドウェルとのトレードで移籍。このときマッコビーと抱き合わせで移籍したのがのちに阪急で活躍したバーニー・ウィリアムス。

1976年8月にはアスレチックスに金銭譲渡されるが、オフにFAとなり、ジャイアンツに復帰した。全盛期は12.5万ドルを得ていたが、この時は5万ドル。

1977年は、日本でMLB中継が始まった年だが、39歳にして奇跡の復活と言われる活躍をして注目された。ビル・マドロックやジャック・クラークと中軸を組む。1979年にはのち西武で活躍したテリー・ホイットフィールドともチームメイト。

1980年、42歳で惜しまれつつ引退。「44」はジャイアンツの永久欠番

1986年の殿堂入り投票で81.4%の得票で選出された。



1968年のセ・リーグ投手陣 リリーフ詳細版


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