60年代から70年代にかけて、韋駄天を発揮した内野手。

1942年3月生まれ。同い年にトニー・ぺレス、ファージー・ジェンキンス、ジェリー・クーズマン。
日本の早生まれに永易 将之、末次 利光 。

キューバ出身。1962年カンザスシティ・アスレチックスと契約。傘下Dクラス、デイトナビーチ・アイランダースでは捕手兼投手、投手としては左、右でそれぞれマウンドに上がる。Aクラスのビンガムトン・トリプレッツでは内野、外野を守り登板もする。

キャリアSTATS

B-Campaneris


マイナー時代から足は抜群で、1964年、遊撃手としてメジャーデビュー。デビュー戦で2本塁打という派手な登場。
翌年、ウェイン・コージーを追いやる形で正遊撃手になり、いきなり盗塁王。

ここから4年連続盗塁王、5年連続50盗塁以上、ア・リーグきっての韋駄天として売り出す。

早打ちで四球が少なく、打率も高くなく、出塁率も今一つだったが、とにかく塁に出れば走る選手だった。
守備は身体能力の高さを生かしたアクロバティックな併殺をしばしば見せた。

1965年9月8日には1試合で全ポジションを守る。1974年9月29日に日本ハム高橋博士が同じ記録を達成した時に、MLBではバート・キャンパネリスが記録していることが日本でも報道された。私の世代は、そのことでキャンパネリスを知った。
投手としては1試合1回を投げ自責点1、防御率9.00。

1971年から5年連続でポストシーズンに出場。1973年のワールドシリーズでは2本塁打と活躍した。

チームがカンザスシティからオークランドへ移籍しても主力選手として活躍したが、1976年オフにFAとなり、レンジャーズに入団。

1979年トレードでエンゼルスに、81年オフにFAとなり、MLBのオファーがなかったためメキシカンリーグでプレーするが、1983年ヤンキースと契約。この年のオフに引退した。

アスレチックスでの1795試合7895打席7180打数1882安打1472単打はいずれもチーム記録。

引退後はマイナーの指導者を勤めたが森祇晶監督時代の87、88年に、西武の内野守備コーチを務める。石毛宏典、田辺徳雄らは当時の教え子である。



2004年岩瀬仁紀、全登板成績


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