下関国債の監督の話が耳目を惹きつけるのは、日本の高校野球、そして高校部活が持っている何とも言えない「欺瞞」「気持ちの悪さ」の裏側を見せつけられる思いがするからだ。
日本の中学、高校の部活の多くは「ブラック化」している。
指導者はほぼ365日生徒を指導する。生徒も最大で、年間十数日しか休まず部活をしている。

部活というのは、本来、学業生活に彩を与え、人間性を涵養したり、体力をつけたりするために行う。
また芸術やスポーツにふれることで、豊かな社会生活をおくることができるようにする。
一般人でいえば「趣味」にあたるものだ。

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しかし多くの部活ジャンルで「全国大会」が設けられ、何千という高校がこれにむけて血道をあげるようになって、部活は本来の意味「楽しむ」「自己実現」などを大きく逸脱し、「成果主義」「勝利至上主義」に向けて爆走するようになった。

「部活」の意義は変質し、学校という「教育機関」で行うべきものではなくなっていった。乖離が起こったのだ。その過程で選手選別が行われ、能力が劣る生徒には出場機会、チャレンジの機会、ときには努力する機会さえ失われた。

本来であれば、教育関係者はこういう事態を憂慮すべきだが、部活の盛り上がり、全国大会の盛況によって、本質を見失い、一緒になって狂奔するようになった。
日本のスポーツはオリンピックとともにもたらされたが、スポーツ系の部活は「オリンピック」という最終目標を設定することで、「国威発揚」という大義名分のもと、正当化された。

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「オリンピック」を国威発揚の道具にしてきたのは、中国、ソ連などの旧共産圏だ。彼らは経済問題や、社会矛盾、人権、報道の自由の抑圧など、国内の矛盾から国民の目をそらすためにステートアマを育成した。劣悪な独裁国家が戦争で国民の不満のガス抜きをするのと同じ図式だ。

私だって五輪で日本人がメダルをとるのを見るのはうれしいが、それはスポーツの目標とは思わない。
日本人が何個メダルを首からぶら下げようとも、日本スポーツの現状が良くならなければ、何の意味もない。
「できる選手」だけに金が投下され、無意味な競争が促進され、学校間、生徒間の格差が開くようでは、何の意味もない。

前にも言ったが、メダリストと同じくらい、へたくそな競技者は重要だ。スポーツを愛し、それを自分の能力の範囲で楽しむ市民をたくさん作ることが第一義、その中からメダリストが出るのは第二義だ。

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部活が教育の一環なのなら、なぜ授業のあるシーズンに大会を行わないのかとも思う。
この酷暑の中、甲子園でも、インターハイでも過酷な競技会が行われている。まさに残酷ショーだ。
本来なら夏休みで、子どもたちには自由な時間が与えられるはずだが、それをすべて取り上げて、一つのことに半ば強制的に従事させられる。

高野連、高体連は反目しあっているが、中身はよく似ている。教育の目的から大きく逸脱して部活そのものを「目的化」している。
そして、指導者のヒエラルキーができて、既得権益を堅持している。極端に言えば「子どもたちを犠牲にし、食い物にする」ような業界ができている。ロシアや中国と似たような図式である。

今のスポーツ界は、下関国際・坂原監督の「本当の話」に一言の反論もできないだろう。



2004年岩瀬仁紀、全登板成績


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