(古い本だが、この本は重要)

朝日新聞、毎日新聞などの大新聞社は、戦前、戦争に国民を駆り立てるうえで大きな役割を果たした。
「名誉の戦死」を美辞麗句を並べ立てて礼賛し、国民が「死ぬのはいやだ」「戦争に行きたくない」と口に出せないような空気を醸成していった。同調圧を濃厚にするうえで、大きな役割を果たした。
中国大陸での戦線では、陸軍将校による「満人百人切り」があったという報道をした。その真偽は別にして、新聞はあたかもスポーツの大記録にように軍人による大量殺人を礼賛したのだ。

新聞というものは、時代によって「何が正しいか」「何が正しくないのか」の判断を度々変えてきた。
戦前は、軍国主義の片棒を担ぎ、他国の侵略や軍人、非軍人の殺害を賛美し、日本人が戦地で死ぬことを最高の美談として日本人に伝えた。
そうすることで新聞が売れたし、国や軍の覚えもよくなった。

戦後、日本の新聞は民主主義へとシフトしたが、それは彼らが心の底から反省したからではなく、そうすることで生き残り、新聞を売るためだった。
しかし、ものごとを必要以上にあおって読者を喜ばせようという「体質」は、ずっと残っている。

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とりわけ自分たちが主催する高校野球では「美談」を作りたがる。骨折した選手が、試合に出場するのは、スポーツとしてはあり得ない蛮行だが、戦前の「名誉の戦死」に通じる「自己犠牲」の物語として、読者に受けるだろうという判断があって、美しい言葉で記事にしたのだ。

新聞の体質は昔から全然変わっていない。「何が正しいか」「何が正しくないのか」を新聞社や記者が判断することなく、大勢に迎合し、喜びそうな記事を大量に生産している。

なかなか変えられないのは、戦後だけでも72年間、この手の美談を作り続けてきた経緯がある。今になって「選手の健康が大事」という記事を書くことができなくなっているのだ。

新聞社が自身の報道の誤りを認めるのは大きなリスクが伴う。朝日新聞は「従軍慰安婦報道」で右勢力から徹底的にたたかれた。その恐怖もあって、自分たちの誤り、行き過ぎを自ら認めることができなくなっている。

年とともに矛盾が噴出し、苦しくなっている「甲子園礼賛記事」を見直し、冷静な記事を書くためには、「終戦」のような「あの報道は、私たちが悪いのではなく、時代が悪かったのです」と言い訳ができる「大事件」が必要なのかもしれない。

時代はゆっくりと、しかし確実に変わっている。炎天下にかんかんになって野球をすることや、怪我を押して試合に出ることを「素晴らしい」と思う人は、確実に減っている。

新聞には勇気が必要だろう。これまでの報道には「間違った部分」「行き過ぎた部分」があったことを認めるべきタイミングになっていると思う。

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2004年岩瀬仁紀、全登板成績


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