実のところ、高校野球の「功罪」は、表裏の関係にある。誕生して1世紀、ここまでの圧倒的な成功体験が、変革の時代にあって、高校野球の大きな足かせになっている。
1. 甲子園至上主義

さまざまな高校野球の「罪」は、象徴的には「甲子園」に集約されるだろう。
関西の一私鉄が運営する民間の球場が、あたかも「聖地」であるかのように持ち上げられる。
この球場で野球をすることが、高校球児の最高の目標であり、そのためにすべてをなげうつことが求められる。その目標のためにはすべてが許される。
各高校も「甲子園に出場すること」が至上命題であり、そのために全精力を傾ける。
スポーツマンシップの道から外れるような「勝利至上主義」や、3年間一度も試合に出ない野球部員を大量に作る「エリート主義」も、縁もゆかりもない土地から選手をスカウトする「奨学金制度」も、暴力やパワハラが容認される「スパルタ」も、「甲子園」の前には容認される。
たかが野球場が、あたかもメッカのように讃えられる。「甲子園」の前にはすべてが「浄化」される。
人を煽ることしかできないメディアは、近年「甲子園至上主義」をさらに悪質なものにしている。

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2.高野連の独善

高野連は、戦後、佐伯達夫によって作られた。戦時中軍部の干渉を受けた苦い経験から、学生野球を他の権力から守るために作られた。高野連は、他のスポーツ部の統括組織である高体連には属さず、インターハイなどとは別個に全国組織を作っている。
高体連所属の各部活も硬直的で、上下関係が厳しい「体育会系」の体質を色濃く残しているが、高野連は彼らとも一線を画し、独立独歩を保っている。
もとは「外部の干渉から高校野球を守る」目的を持っていたが、今の高野連はあたかも「法王庁」のように、高校野球を支配している。高校生や指導者の不祥事に「罰」を与え、マスメディアには厳しい取材規制を敷くことで、周囲に恐れられている。
彼ら自身が「権威」となり、高校球界を支配することで、問題提起や改革の芽は摘まれていく。
「不祥事や問題はあってはならない」という建前を貫くために、事実を直視しない。結果的に高野連は、自らの権威を守ることを自己目的化している。
高野連の背景に新聞社という自己改革ができない古い体質の企業があることも見逃せない。

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3.「似非伝統文化」化

高校野球の「功」の部分は、今もほとんど変わっていない。猛練習による高次の野球、礼儀正しく、規律のある野球部の文化などは不変だ。
それをして「高校野球の伝統が守られている」という人は多い。
しかし、ここ20年、日本社会は劇的に変化した。また野球を取り巻く環境も大きく変わった。
これまで「善」とされていたことに疑問が呈され、改められることも数え切れないほどあった。
しかし聖地甲子園を頭上にいただき、法王庁たる高野連によって支配されている高校野球は、自らの伝統と権威を守るためにそうした時代の流れに無関心だった。
そういう意味で高校野球を「伝統文化」と呼ぶ人が多くなった。しかし「伝統文化」は、高野連を揶揄する言葉、アイロニーであり、だから「変革しないことが許される」わけではない。
本物の「伝統文化」は、日本古来の伝承、価値観、美意識などを「文化」の形をとって次代に守り伝える使命をおびている。数百年、千年という長い歳月、守り伝えられてきた文化資産を守ることが目的だ。失われては取りかえしがつかないものだ。
甲子園はたかだか1世紀の歴史しか持たない。甲子園が聖地に擬せられたのはほんの数十年前だ。しかも野球は外来スポーツであり、どんどん変化している。これを「伝統文化」であるかのように言うのは、僭称である。あるいは新興宗教的と言ってもよい。
本当の「伝統文化」は、その精神、技を現代人に伝えるために、改めるべきところは改め、柔軟に時代に向き合っている。「伝統文化」は柔軟な「革新性」がなければ次代に伝えることはできないのだ。

その意味で、高校野球は「似非伝統文化」だ。高野連とメディアが「権威」に祭り上げてしまったために、体制を維持することが自己目的化している。
権威に逆らえない図式が、高校野球を陳腐化し、日本の野球界全体の進化の重い足かせになっている。

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私たちは、たかが十代の子供がやるボール遊びが、ここまで権威化され、社会に影響を与え、多くの人の人生まで翻弄するようになったことの異様さを、もう一度見つめなおしてみる必要があるだろう。



夢の裏バットマンレース(後半戦)


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