"大沢親分"である。一昨日の大沢清の16歳下の弟。1000本の半分の500本しか安打は打っていないが、野球史には功績があったので紹介しておく。
1932年3月生まれ。この年の早生まれに脇村 春夫 、花井 悠、広岡 達朗、ドン・ブレイザー、MLBではモーリー・ウィリス。

高校時代は喧嘩に明け暮れ兄清の母校神奈川商工で甲子園に出るも、そこでも暴力沙汰。立教大学に1年遅れで入学、卒業後南海に。兄には終生頭が上がらなかった。

キャリアSTATS

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100万ドルの内野陣に対して外野が弱いとされた南海で1年目から外野を守る。初スタメンは4月12日の大阪球場の東映戦、6番左翼で先発。この年、幸先よくオールスターに選出される。

俊足で非常に肩が強く、外野手としては優秀だったが、打撃は平凡で、翌年以降、潤レギュラー核となる。

立教の後輩、長嶋茂雄、杉浦忠の獲得に際しては鶴岡一人監督とのパイプ役を務める。

広瀬叔功、井上登の加入などによって次第に出場機会が減って東京オリオンズに移籍。これは南海が大沢に10年選手のボーナスを払うのを惜しんだためとされる。

1965年限りで引退。

引退後はロッテで打撃コーチ。69年から二軍監督を務めるが、当時の特例措置として"若手に見本を示すため"公式戦に出場した。これについては「二軍史」参照。



1971年にロッテ監督となる。
監督成績

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監督としては優勝は1回だけだが、日本ハム球団の常務としてマネジメントの手腕を発揮。

晩年は「サンデーモーニング」で張本勲とともに「喝!」「あっぱれ!」とやっていた。

関根潤三は選手としての実績は大沢よりも上だが、監督としては優勝経験なし。しかし殿堂入りしている。
大沢は合わせ技で殿堂入りするには、もう一歩足りなかったということか。

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