先日、高校の授業中に教師に生徒が暴力を働いた動画がSNSに投稿されて話題になった。校内での暴力の是非をめぐる議論が沸き起こったが、日本が法治国家である限りは、この議論はもう終わらせなければならないだろう。



暴力をふるった生徒に教師はどうすべきだったか。
教育者として毅然と立ち向かうべきだとか、教師にも殴る権利があるとか、教師が情けないとかいう意見が出たが、学校が日本国内にある限り、教師は暴力の被害者であり、一点の非もない。
教師に多少なりとも非があるという意見は、婦女暴行事件で「暴行を受けた女も悪い」というのと同様、その論者の意識下に一辺の「暴力、暴行容認」があることを意味しているだろう。

学校側は、世間に心配をかけたと謝罪したが、生徒がSNSでこの映像が拡散したことも遺憾だとした。つまり間接的にこの暴力行為を世間に漏洩した生徒を非難したのだ。
報道によれば、その生徒は義憤に駆られて拡散したとのことだが、そうだとすればまともな感覚の持ち主は、この生徒だけだったということになる。

「暴力」に対する鈍感、不感は、日本の学校の深刻な病理だ。
教師は、「熱心さのあまり」「愛のむち」で、生徒を殴ってきた。父母や社会はこれを肯定し、時には称賛してきた。その風土があったから、生徒も暴力をふるうのだ。
つまり暴力を無条件に即座に否定するのではなく、そこに何らかの「事情」や「思慮」が感じられるなら、それは許される余地がある。教師の場合「子どもの怠惰を叱る」「立ち直りを促す」「秩序を保つ」などの前向きな理由がある暴力であれば、許容される余地がある。
だとすれば、子どもが彼らなりの「意図」「思慮」があって暴力をふるった場合も、許容される可能性があるのではないか。未熟な子どもが、彼らなりに正義を貫こうとして振るった暴力にも、教師のそれと同様認められるのではないか。
先生が殴れば「教育」で、子どもが殴れば「暴力」だ、という理不尽が、暴力の温床になっている。暴力はどんな理由があってもダメと一線を引かないことが、暴力の根絶を妨げる最大の原因だ。

昔はそういう事情を社会も酌量していた。だから学校で起こった暴力沙汰は警察に通報されなかったし、たとえ通報されても警察がそれを被害届にしないこともあった。
端的に言えば、一般社会では犯罪行為になることが、学校では看過される、容認される。
学校は一般社会とは違う倫理やルールが支配する「治外法権」のような状態になっていったのだ。

学校の暴力がなくならないのは、日本の学校そのものに暴力を容認する土壌があるからだ、
学校の暴力沙汰は、「教師の暴力=体罰」と表裏の関係にある。「体罰」を根絶しない限り、子どもの暴力沙汰も根絶できない。

野球の暴力を題材にしたこんな本が出た。



かなりの期待感をもって読んだ。
匿名を条件に多くの有名校の高校球児が、学校で暴力を振るわれたことを語っている。
監督、先輩などの理不尽な暴力に、反発する者もいるし、それがプラスになったというものもいる。
彼らの生々しい独白は迫力があるが、この本全体としては「暴力」を容認しているのか、否定しているのかはっきりしない。
誠に歯切れが悪いのは、筆者が立教大学野球部出身の選手上りだからだろう。野球ライターとして、野球界のやり方を全否定するようなことは書けない。
意欲的なテーマではあるし、後半では建設的な提言があって有意義だったが、暴力に対するきっぱりした否定がなかった点が残念だった。

この本からも見える通り学校内の「暴力」は、「身内」では変えることができない。学校、教育者の多くは「体罰」「暴力」を容認してきたのだ。
「暴力」を全否定することは、これまでの彼らが行ってきた教育を一部とはいえ否定することになる。
だから「暴力はいけない」と言いながらも、何らかの条件を付けて例外的に「暴力を容認する余地」を残すような言辞を弄することになる。

「学校の暴力」は、部外者からの遠慮のない、厳しい批判が必要だ。
「学校」という治外法権ゾーンで行われていることが、いかに異様で、理不尽で、人権を無視しているかを遠慮なく指摘すべきだ。

そういう意味でもSNSで授業中の暴力沙汰を世間にさらした生徒は、実に健全だと言えるだろう。

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