「熱闘甲子園」から、「お母さんありがとう」まで、日本の野球は「涙」と親和性が高いようだ。それは何を意味しているのだろうか?

「甲子園」も、「ドラフト指名」も、基本的な構造は同じである。
これまで、野球一筋、すべてを野球のためにささげてきた少年、青年が大きな舞台に立ったり、ドラフトという“審判”を受ける。そこで生じる悲喜こもごも、多くは涙を伴うドラマを、娯楽として楽しもうというものだ。
「人の不幸は蜜の味」という無責任で、本当の意味での「配慮」に欠けた、部外者の視点で消費しようというものだ。
こうしたドラマは「情」の物語だと思われがちだが、見方を変えれば「非情」の物語でもある。

こうしたドラマは、野球界のためにはならない。発展の妨げになる。

まず、こうした安っぽい「お涙頂戴」は、物事を皮相にとらえる人々には受けるだろうが、ふつうのリテラシーの持ち主には支持されない。一見、野球を応援しているようで、実際には赤の他人が苦しんでいるのを楽しみような低俗な番組は、その底意を知る人にはドン引きされる。

そして、この手の番組は、野球界が今、抱えている問題、「野球離れ」を引き起こしている問題から、人々の目をそらせる役割をする。
「汗と涙の物語」の賛美は、旧弊で、さわやかでも何でもない野球界の本質を隠ぺいする。

この手の物語では、端的に言えば「勝てば、指名されれば」これまでの苦労はすべてちゃらになる、という印象を与える。激しすぎる練習も、理不尽な規律も、すべて「浄化」されるのだ。
「熱闘甲子園」「ドラフトもの」は、恐らく野球選手や野球関係者も見ているはずだ。彼らが、メディアが作ったこの手のお話に「乗る」ことで、安くて品のない物語は、再生産されていく。

一方で、NHKなどは、上質のアスリートの物語を発信している。競技に向き合うアスリートの努力、それは誰かの指導をうのみにするのではなく、自分の頭で考えたものだ。それは「根性」ではなく、「創造」であり、「鍛錬」「研鑽」と呼ぶにふさわしいものだ。
彼らアスリートが得る報酬は、確かに「勝利」「栄冠」であろうが、究極の努力をしている選手の多くは、それを成しえた段階ですでに「達成感」を得ていることが多い。自分自身が求めるアスリート像に肉薄したことで、自分なりの満足を得ているのだ。だから、彼らの物語に「涙」は少ない。
そうしたドキュメントでも家族が出てくることはあるが、あくまで「見守る人」であり、その「涙」が映像でとらえられることはない。
こうしやドキュメントを見れば、人々はアスリートの「努力」に敬意を抱くだろうし、その競技に対する興味も書きたてられるのではないか。

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今、地上波での野球中継はほぼ絶えたが、一方で「熱闘甲子園」「ドラフト」「戦力外」などのお涙頂戴は増えている。テレビ局は、鉱脈を当てたと思っているのではないか。
しかし、その鉱脈は野球ファンや潜在的なファン予備軍とはとは別個の鉱脈だ。「野球離れ」の対策にはならない。かえって世間の野球に対する偏見、蔑視を助長するものだろう。


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