これは直接野球に関係しないが、一こと言っておきたい。
放送禁止用語は、放送局、メディアが「言葉で生きていく仕事人」としての矜持を忘れ、事なかれ主義に流れた判断だということだ。
「差別語」は、身障者や被差別部落出身者、外国人などを不当に差別するための言葉だ。
当然、それは否定されなければいけないが、それは即、「差別語」を使わないことと同義ではない。
「差別語」は、なぜ使ってはいけないか、それを使うことでどうなるかをしっかり議論したうえで、廃絶しなければならない。
しかし、放送局や新聞メディアは、議論が巻き起こり、それに自分たちがまきこまれることを恐れ、特にスポンサーの心証を悪くすることを恐れ、どんどんこの手の「やばい言葉」を使わなくなった。
「差別語」だけでなく「差別的」と受け取られかねない言葉もどんどん使わなくなっている。
件の「田舎者」もそうだし、「乞食」「きちがい」「めくら」などもそうだ。また「女だてらに」「女のくせに」などという表現も排除されている。いわゆる「放送禁止用語」だ。
そういう言葉は状況によっては「差別語」的なニュアンスをはらむ。都会人、健常者をスタンダードとした場合、そこに該当しない人をその属性、特徴で呼ぶことは、すべて差別語的になる。しかし、そう呼ばないと、問題点を明らかにしたり、本質に迫ったりできない。
今のメディアは、言葉そのものを「使わない」ことによって、あるいは新しい言葉に言い換えることで、差別的な問題そのものを「なかったこと」にしようとしている。
たとえば「部落」という言葉がある。これはもともと「集落」と同じ「人が居住する場所」を意味したが、のちに「被差別部落」を意味するようになった。そのために「部落」も放送禁止用語になった。「部落」を使わないことで、差別がなくならないわけではないのに、この言葉を使わないことであたかも「部落問題」がなかったかのように思う人が増えた。差別は今も存在する。しかい今の若い世代には「部落って何のこと?」と思う人も多いのではないか。
もう誰も知らなくなっただろうが、きだみのるの『気違い部落周游紀行』は、終戦後の日本のある集落の実相をとらえた重要な書籍だが、今ではこれを紹介することさえできなくなった。
精神医学者なだいなだの『くるいきちがい考』も取り上げられなくなった。
中には言葉の言い替えとともに、実態も改善された例がある。最近、身障者は「パラ」と言い換えられるようになった。パラリンピックがオリンピックに近いステイタスになり、身障者の競技者がアスリートとして認知されつある現状を見れば、「パラ」という言葉は、単なる言いかえではなく実態を伴った言葉になった。
しかしそうでない例もたくさんある。「差別語」「放送禁止用語」を使わないことで、問題そのものが隠蔽されてしまう。その危険性を読者各位は考えたことがあるだろうか?
野球でいえば、今「外人」という言葉は使わない。「外国人」ということになっている。プロ野球界が「ガイジン」「害人」などの言い替えをして、外国人選手を差別してきたために、「外人」は単なるForeignerの意味ではなく、差別的なカラーを帯びるようになったからだ。
しかし「外人」を「外国人」と言い換えても、外国人選手の差別がなくならなければ、問題は解決していないことになる。
阪神の幹部のように「キャンベルは鳥谷敬のかませ犬や」と平気でいうような人がいる限り、外国人選手への不当な扱いはなくならない。
「放送禁止用語」は、メディアの自殺行為である。「放送禁止用語だから使わないほうが良い」というのは、一般人の後追い自殺だ。そういう認識は、知的レベルが低く、恥ずかしいと思う。
みんな、自分の頭で考え判断しよう。
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当然、それは否定されなければいけないが、それは即、「差別語」を使わないことと同義ではない。
「差別語」は、なぜ使ってはいけないか、それを使うことでどうなるかをしっかり議論したうえで、廃絶しなければならない。
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「差別語」だけでなく「差別的」と受け取られかねない言葉もどんどん使わなくなっている。
件の「田舎者」もそうだし、「乞食」「きちがい」「めくら」などもそうだ。また「女だてらに」「女のくせに」などという表現も排除されている。いわゆる「放送禁止用語」だ。
そういう言葉は状況によっては「差別語」的なニュアンスをはらむ。都会人、健常者をスタンダードとした場合、そこに該当しない人をその属性、特徴で呼ぶことは、すべて差別語的になる。しかし、そう呼ばないと、問題点を明らかにしたり、本質に迫ったりできない。
今のメディアは、言葉そのものを「使わない」ことによって、あるいは新しい言葉に言い換えることで、差別的な問題そのものを「なかったこと」にしようとしている。
たとえば「部落」という言葉がある。これはもともと「集落」と同じ「人が居住する場所」を意味したが、のちに「被差別部落」を意味するようになった。そのために「部落」も放送禁止用語になった。「部落」を使わないことで、差別がなくならないわけではないのに、この言葉を使わないことであたかも「部落問題」がなかったかのように思う人が増えた。差別は今も存在する。しかい今の若い世代には「部落って何のこと?」と思う人も多いのではないか。
もう誰も知らなくなっただろうが、きだみのるの『気違い部落周游紀行』は、終戦後の日本のある集落の実相をとらえた重要な書籍だが、今ではこれを紹介することさえできなくなった。
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中には言葉の言い替えとともに、実態も改善された例がある。最近、身障者は「パラ」と言い換えられるようになった。パラリンピックがオリンピックに近いステイタスになり、身障者の競技者がアスリートとして認知されつある現状を見れば、「パラ」という言葉は、単なる言いかえではなく実態を伴った言葉になった。
しかしそうでない例もたくさんある。「差別語」「放送禁止用語」を使わないことで、問題そのものが隠蔽されてしまう。その危険性を読者各位は考えたことがあるだろうか?
野球でいえば、今「外人」という言葉は使わない。「外国人」ということになっている。プロ野球界が「ガイジン」「害人」などの言い替えをして、外国人選手を差別してきたために、「外人」は単なるForeignerの意味ではなく、差別的なカラーを帯びるようになったからだ。
しかし「外人」を「外国人」と言い換えても、外国人選手の差別がなくならなければ、問題は解決していないことになる。
阪神の幹部のように「キャンベルは鳥谷敬のかませ犬や」と平気でいうような人がいる限り、外国人選手への不当な扱いはなくならない。
「放送禁止用語」は、メディアの自殺行為である。「放送禁止用語だから使わないほうが良い」というのは、一般人の後追い自殺だ。そういう認識は、知的レベルが低く、恥ずかしいと思う。
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事なかれで見ないふり=視界に入らなくする=無意識の無視
という、差別よりもたちの悪い風潮ができあがるように思います。
そんな中では、実際に問題に直面した際、
どう接したらよいか分からない=やっぱり無かったことにする=むしろ排斥する
ということになるでしょう。
戦前戦中の諸問題は、すべてその流れに飲み込まれようとしています。
勝新の『座頭市』では、
「目明きに闇は不利ですぜ」
「どめくらを二度言っちゃあいけませんや」
など強烈なセリフがいくつもありました。
当時、差別は人によってはなおひどかったでしょうが、問題を覆い隠さずに突きつける表現もまた許されていました。
表現者も作品の根底に社会へのアンチテーゼをしっかり組むことに長けていたと思います。
ちゃんと考える機会さえ奪うような昨今の風潮を憂います。