この話はもう終わりにしたいのだが、もう一度だけ。地上波テレビが野球ばかり扱って、サッカーや他のスポーツを冷遇していることについて。
その経緯は、これまで述べた通り。
プロ野球はメディアが自らの販促の道具として自らの資本ではじめ、拡げてきたものだ。
だから、プロ野球には常にメディアがついてきた。プロ野球中継は、民放テレビのキラーコンテンツであり、新聞もスポーツ欄の大部分を野球で埋め尽くしてきた。
それは資本関係があった讀賣新聞だけでなく、他の一般紙も同様だった。もとは讀賣の「販促手段」だったが、あまりに人気が高かったこともあって、他のメディアも追随したのだ。
それに先行して、朝日と毎日は、高校野球で同様の販促ビジネスモデルを確立していた。

それが今まで続いてきたということだ。世の中が代わり、人々のし好が多様化する中で、プロ野球はキラーコンテンツではなくなった。野球自身が旧弊で、暴力や理不尽な指導なども嫌われて「野球離れ」も進んでいる。
しかし、メディアは、野球に代わるスポーツコンテンツを十分には開発できず、惰性で今も野球を大きく扱っている。

サッカーがこれに代わるべきなのかもしれないが、今のメディアはサッカーでは地上波での視聴率は厳しいと判断しているのだ。

サッカーは、野球と同様、メディアを抱き込んで人気スポーツになる可能性もあった。讀賣ヴェルディが、放映権のチームでの保有を主張し、ナベツネと川淵三郎が対立したのは有名な話だ。ナベツネは、ベルディを巨人のようにしようとしたのだ。しかしJリーグはそれを峻拒した。

そういうビジネスモデルは、Jの「100年構想」に反するし、メディアの「男芸者」になることで、デメリットも大きいからだ。

つまり、サッカーは野球のようなメディア戦略は取らなかったのだ。

何度も言うが、地上波のちんけなスポーツ番組で、プロ野球が報道されることに大した意味はない。ファンの多くはネットで情報をえて、BSやCS、ネットテレビで観戦している。その点は、野球もサッカーも同じだ。

IMG_6630


それから、そういうメディアの偏向は、社会的に問題があるのではないか、という話だが、野球を大きく扱うか、サッカーを大きく扱うかは、メディアの量的裁量権の内だ。

日本人の多くは「メディアは偏向してはいけない」と思っているようだが、こんなことを言っているのは、自由主義圏では日本だけだ。選挙中に政党や候補者の情報を自由に報道していない民主主義国家なんて、日本くらいしかない。
「言論の自由」とは、文字通り「何を言っても良い」自由であって、虚偽でなければ、メディアは自分たちが報道したいことを何でも好きなように報道できる。

サッカーについても同様だ。サッカーの扱いが少ないのは、メディアが、そういう判断をしたというだけだ。
自由主義圏では、そういうメディアを市民が自由に選択する。そこで市場原理が機能するわけだ。

記者クラブがあって、サンケイから朝日までがほぼ同じ内容の記事を書き、発信している今の日本のメディアは確かにおかしいが、それはまた別の問題。

スポーツに関する報道の問題点は、サッカーが少ないの、野球が多いのという問題ではない。野球の報道でいえば、甲子園やプロ野球の大賑わいは報道するが、その陰で高校野球でおかしな指導が行われていることや、「野球離れ」が進んでいることをちゃんと報道しないことだ。

野球はメディアが作ってきたスポーツだ。その「負の面」にもメディアが関与している。だから、自分たちが非難されることを恐れて、しっかり報道できないのだ。

メディアは、見たもの。問題だと判断したものを、そのまま広く伝える責任がある。それをするから「第4の権力」を与えられている。
野球に対するメディアの腰が引けた報道は、野球、スポーツだけでなく、民主主義を考えるうえでも深刻な問題だ。

そういうことだ。


IMG_6482


1974年星野仙一、全登板成績【巨人を止めた最多セーブ&沢村賞

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!