松本人志が「ワイドナショー」で、相撲と暴力について語ったことは、なかなか示唆に富んでいる。

松本人志は日馬富士の暴行事件についてこう発言した。

「(大相撲は)人を張り倒して投げ倒す世界。土俵以外のところで一切暴力だめというのは、正直無理がある。(暴力がだめ)だったら、稽古ってどうやってつけんねやろ」
「“稽古”と“体罰”ってすごくグレーなところで。でも、それで強くなる力士も僕はいると思うんです。だから、僕は日馬富士に関しては味方ですね」


この松本人志の意見を、低レベルだ、認識不足だ、と批判する向きもあるが、松本の見方は、コンプライアンスが厳しくなった今の世の中に、大相撲など多くのジャンルが対応しきれなくなって、ギャップが露呈していることを象徴的に表している。

大相撲は、コンプライアンス意識は愚か、今の法律ができるはるか以前から存在していた。相撲界は、外界とは切り離された世界であり、8人目の横綱不知火諾右衛門のように、傷害事件を起こして郷里から出奔したようなアウトローも迎え入れてきた。
その秩序は、表向きは規律によって守られているとされたが、実際には「暴力」によって維持されてきた。
私が相撲を見始めてからも、何人かの力士が突然死している。全員、病死ということになっていた。肥満体が多いから、本当に病死した者もいるだろうが、中にはリンチで死亡したものもいたかもしれない。

相撲は、疑似暴力である「格闘技」の競技者集団だが、疑似暴力と暴力の境界は常にグレーゾーンだった。

1971年まで生きていた呼び出し太郎(戸口貞次郎)は、昭和になってから。巡業中生意気だったある力士が、就寝中に布団蒸しにあい死亡したと書いている。布団蒸しとは、寝ている人間の上に人が乗って圧力をかけるリンチであり、江戸時代の牢では、圧死、窒息死させる手段だった。しかし一行はその力士を埋葬し、何食わぬ顔で巡業を続けた。警察が動くこともなかった。大相撲という特殊な世界の出来事だったからだ。そういう点で大相撲は任侠の世界と何ら変わりがなかった。

日馬富士が貴ノ岩を殴ったことは、これまでの相撲界の感覚では、何の問題もなかった。むしろ、横綱として跳ね返りの若いものを暴力で懲らしめるのは、当然の責務でさえあった。

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ごく最近になって、閉ざされた社会でのみ通用する、一般社会とは異なる「特殊ルール」が否定されるようになった。特に「人権」「暴力」「法律違反」に対しては、どのような世界に属していようとも厳しい目が注がれるようになった。

そしてそのことに鈍感な組織では、次々と不祥事が明るみに出るようになった。
まさにそうした「感覚のずれ」が今回の事件になった。
「八百長事件」で、大相撲は滅亡の危機に瀕した。このときに外部の有識者を迎えるなど大改革が行われ、相撲界は生まれ変わったと言われたが、その本質は変わらなかった。
だから、不祥事が再び起こった。

野球界に目を転じても、一昨年の「野球賭博」事件でわかるように、昔の感覚は温存されている。
「野球界」にしか通用しないモラル、規範意識がまだ残っている。山口俊の事件もそうだろう。その点では、相撲界と大差ない状態ではないかと思う。

松本人志は、昔の特殊な世界でのみ通用した価値規範を、わざと口にして見せたのだろう。今の遊びのないハンドルのような、がちがちのコンプライアンス意識に対して、世間話のような軽い口調ながら批判して見せたのだろう。

暴力や賭博のような違法行為は間違いなく「悪」であり、そこに異論をはさむ余地はない。しかし、閉ざされた世界では、それを容認してきた歴史もあった。
それを根絶したいのなら、組織のトップを変えるなり、新たな原理原則を作るなり、本当に組織を作り替える必要がある。


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