野村克也は1956年から、本格的に活躍し始めた。南海と西鉄が激しく覇権を争っていた時代だ。


1956年は、154試合制。NPB史上最も試合が多かった。野村は正捕手だったが、松井淳も80試合でマスクをかぶっていた。
7本塁打だが、ベストナインに選ばれたのは捕手としてはそこそこ打ったからだ。

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しかし1957年に30本塁打でいきなり本塁打王。

捕手の本塁打王は、戦前のバッキー・ハリス、服部受弘という前例があったが、6本、8本での本塁打王であり、極めて異例だった。「強打の捕手」は、野村克也が嚆矢と言っても良いかもしれない。

この年は、チームを長く引っ張ってきた飯田徳治が国鉄に移籍。一塁に寺田陽介、二塁に岡本伊三美、三塁蔭山和夫、遊撃森下正夫、外野は杉山光平、穴吹義雄、大沢昌芳、広瀬淑功がユーティリティ。

鶴岡監督は、100万ドルの内野陣から強力な西鉄打線に対抗するため、大型打線を組もうとしていた。まさにそのタイミングで野村が台頭したのだ。

当時のリーグ最強打者は中西太だったが、野村は大毎の山内和弘、葛城隆雄らとともに、その最大のライバルだった。

1958年には立教大学から杉浦忠が入団。いきなり大活躍を始めるが、野村はその相棒役としても活躍した。

南海ホークスは多くの俊敏な選手の働きで強豪チームとして君臨してきたが、野村の台頭、杉浦の登場で、巨人と同様、「エースと4番」を中心としたチームに変貌したと言えよう。

西鉄がやや下り坂になる中で、南海は強豪の地位を維持した。そして南海は「野村克也のチーム」になろうとしていた。

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