よく考えてみれば、選手に「敬遠の是非」について聞いても仕方がないと思う。
投手にとって、打者との勝負を避けて、ゆるい球を4球投げる数十秒の期間は「屈辱」以外の何物でもない。できればこの時間はショートカットしたい、と以前から思っていたことだろう。
また打者にとっても「勝負を避けられた」こと自体は多少自尊心をくすぐられるにしても、打てない球が4つ本塁を通過するのを見ているのは空しい気持ちだろう。
「敬遠」がなくなって、監督のコールだけで打者が一塁に歩くことになれば、投手も打者も「手間が省ける」と思っているはずだ。

「敬遠」に意味を見出し、それがなくなることに異論を唱えているのは、実はファンだけなのだ。
多くの強打者は敬遠にまつわるエピソードを持っている。
全盛期の長嶋茂雄は、度重なる敬遠にうんざりして、バットをさかさまに持ったことがある。
王貞治は、捕手が立ち上がっても、律儀に右足を上げていた。
張本勲は、敬遠とわかるとバットをステッキのように地面についてボールを見送ったことがある。
ダリル・スペンサーは野村克也と三冠王争いをしているときに敬遠攻めにあい、バットを持たずに打席に立ったことがある。
クロマティや、新庄剛志のように、敬遠球を打って投手の鼻をあかした打者もある。

こうしたエピソードは、目の当たりにした野球ファンにとって宝物のようなものだが、当の野球選手にすれば、どうでもよい話であるはずだ。
「敬遠」は、作戦として強打者との勝負を避けるためか、わざと塁に走者を出して守りやすくするために行うが、このこと自身が、野球というゲームが、単純な白黒の争いではなく、深謀遠慮の働く奥深い球技であることを表している。
競技者、指揮官にとって「敬遠」は、元から「競技」ではなく、一つの作戦を展開するうえでの「手続き」的なものだったのだ。ごく例外的に敬遠球を打つことがあるが、それはあくまで想定外だ。
「手続き」であるなら、それが簡略化されることは、歓迎することこそあれ、否定する根拠はない。
「敬遠」に意味を見出し、なにがしかの思い入れを抱くのは、ファンなのだ。投手の恥ずかしそうな顔、打者の憮然とした表情。そこに勝負の綾を見、面白さを感じるのは、本当に野球の試合を見るのが大好きで、野球選手が好きなファンだと思う。
「敬遠」なんてどうでもいいというのは、実に粗雑な意見である。そしてファンの感情を無視した冷たい施策だと思う。
日本のプロ野球は、お客から金を奪うことにはものすごく熱心だし、大騒ぎで応援をする人をすごく大事にするが、これまでずっと野球を見てきて、野球にかかわるどんなきれっぱしにさえ愛情を覚えるような「野球好き」には冷淡だ。
一顧だにすることなく「敬遠簡略化」を導入するNPBや選手会は「野球好き」なんて、うるさいだけでどうでもいいと思っているのだろう。
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王貞治は、捕手が立ち上がっても、律儀に右足を上げていた。
張本勲は、敬遠とわかるとバットをステッキのように地面についてボールを見送ったことがある。
ダリル・スペンサーは野村克也と三冠王争いをしているときに敬遠攻めにあい、バットを持たずに打席に立ったことがある。
クロマティや、新庄剛志のように、敬遠球を打って投手の鼻をあかした打者もある。

こうしたエピソードは、目の当たりにした野球ファンにとって宝物のようなものだが、当の野球選手にすれば、どうでもよい話であるはずだ。
「敬遠」は、作戦として強打者との勝負を避けるためか、わざと塁に走者を出して守りやすくするために行うが、このこと自身が、野球というゲームが、単純な白黒の争いではなく、深謀遠慮の働く奥深い球技であることを表している。
競技者、指揮官にとって「敬遠」は、元から「競技」ではなく、一つの作戦を展開するうえでの「手続き」的なものだったのだ。ごく例外的に敬遠球を打つことがあるが、それはあくまで想定外だ。
「手続き」であるなら、それが簡略化されることは、歓迎することこそあれ、否定する根拠はない。
「敬遠」に意味を見出し、なにがしかの思い入れを抱くのは、ファンなのだ。投手の恥ずかしそうな顔、打者の憮然とした表情。そこに勝負の綾を見、面白さを感じるのは、本当に野球の試合を見るのが大好きで、野球選手が好きなファンだと思う。
「敬遠」なんてどうでもいいというのは、実に粗雑な意見である。そしてファンの感情を無視した冷たい施策だと思う。
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一顧だにすることなく「敬遠簡略化」を導入するNPBや選手会は「野球好き」なんて、うるさいだけでどうでもいいと思っているのだろう。
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