「野球はそうした歴史的な特性を持ってることに留意すべきだろう」の主語がわからないというご指摘を受けた。恥ずかしいことである。読者各位と「野球の未来を考える」問題意識を共有しているつもりではあったが、当然、そのことを知らない方も読みに来られる。留意すべきだった。
「"野球離れ"を憂慮する人は、野球がそうした歴史的な特性を持ってることに留意すべきだろう」という意味である。
戦前の野球は、小学生の時代から「競技」であり、一握りの「選手」のものだった。「野球遊び」「野球ごっこ」は当時からあったが、それほど盛んではなかった。
「早慶戦」「甲子園」などで、野球は国民的な人気を博してはいたが、競技者はせいぜい10万人程度。限定的であり「野球は好きだが、草野球レベルでもやったことがない」人が大部分だった。

その環境が一変したのは、終戦後だ。日本を統治した占領軍の主力はアメリカだったが、彼らは日本に深く浸透していた「野球」を、民心を安定させ、アメリカ流の「民主主義」を広めるための手段に利用した。

野球は他のスポーツに先駆けて、終戦の年から試合をすることが承認された。翌1946年にはプロ野球が再開された。
占領軍のマーカット准将はセミプロの経験もある競技者で、野球を占領軍の統治の道具にすることにとりわけ熱心だった。二リーグ分立や、ファームの整備は、戦前から日本野球と深いかかわりがあり、戦後、サンフランシスコ・シールズを率いて来日したオドールが提唱したものだが、その背景にマーカットの存在もあったと言われる。

そういう形で「アメリカ流の野球」の再普及が進んだ。その象徴が「青バットの大下」だった。戦前、明治大学の選手だった大下弘は、本塁打を狙ってぽんぽん打ち上げるので「ぽんちゃん」とあだ名されたが、飛田穂洲流の日本野球では異端児扱いされた。

しかし戦後のプロ野球では本塁打を量産する大下は、ニュースターだった。これに追随する形で「赤バットの川上」も本塁打を打ち始め、プロ野球は一躍人気となった。

この野球人気の主力は子供たちだった。彼らは野球選手の顔が描かれたメンコを集め、当時雨後の筍のようにできた野球雑誌、のちには野球漫画満載の漫画雑誌を買いあさった。

そして見様見真似で「野球ごっこ」をやり始めたのだ。占領軍は各地の学校に大量に野球用具を寄付した。戦後の高校野球はその恩恵を被った。普通の子供たちはその恩恵にはあずからなかったが、棒きれのバットに布を巻いたボールで、あちこちで「野球ごっこ」を始めたのだ。

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当時は日本全国に空き地があった。空襲で日本全土が焼け野原になっていたからだ。そうした空き地で子どもたちは「野球ごっこ」に明け暮れた。
そこには飛田穂洲流の「野球道」はなかった。あったのは大下、川上、さらには別所、大友に憧れ、そのフォームをまねして無邪気にバットを振り回し、ボールを思い切り投げる、遊びの精神が横溢した子どもの世界だった。「野球ごっこ」は、「プロ野球の真似」から始まった。

スターの系譜は川上、大下から西鉄の中西、豊田へ、そして戦後最大のスター、長嶋茂雄へと移行していく。
子どもたちのヒーローもそれにつれて変わった。長嶋が巨人に入団する頃には、野球ごっこの世界にもグラブやバットが普及し始めた。
こういう形で「野球ごっこ」は、男の子の遊びの「王道」となったのだ。

しかし「野球ごっこ」は、学校教育とは全く無縁に発展したから、教員たちはそれに冷淡だった。戦後の学校教育に野球が取り入れられなかったのは、野球に「遊び」の要素が極めて大きかったからだろう。学校であけても暮れても野球の話ばかりする子供たちの姿は、学校にとっては疎ましいものだった。
さらに、学校の部活として戦前から続いていた「野球」の側から見ても、「野球ごっこ」は疎ましい存在だった。飛田穂洲流の野球の精神論を理解せず、練習もせず、みんなが好き勝手に投げたり打ったりするようなものは、野球でも何でもなかった。指導者も選手も「野球ごっこ」を馬鹿にし、排除しようとした。
戦前から、全国に野球のグランドがあったが「野球ごっこ」に興じる子供たちが、そのグランドを使うことはなかった。野球界からすれば「野球ごっこ」「野球遊び」は、ゴミみたいなものだった。

戦後「野球ごっこ」は、男の子の「遊び」の主流となり、それが「野球ブーム」をもたらしたが、大人たち、そして野球界は「野球ごっこ」を全く評価せず、むしろ排除しようとした。
「公園での野球禁止」の背景には、そうした経緯もあったのだ。

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