新年早々、カヌー競技のドーピングという悲惨な事件が飛び込んできた。ライバルの飲料に禁止薬物を混入させてドーピング違反に陥れたという事件だ。
30歳を過ぎた加害者は、長く競技の第一人者だったが、オリンピック出場を果たせず、一時引退したが、2020年のオリンピックのために現役続行した。

4人でやるカヤック競技に選手として入ることを目指していたが、若手の台頭で5位以下になりそうだったために、若手選手をドーピング失格させようとしたのだ。

日本のアスリートは、オリンピックに出場するかしないかで将来が大きく違ってしまう。
オリンピックに出場した選手は、一生肩書がついて回る。大学の教員や指導者になるうえで、大きくモノをいう。
しかし、たとえ紙一重の実力であっても、オリンピックに出場できなかった人は、その後のステイタス、人生そのものが違ったものになってしまう。
アスリートとして、子供のころからすべてを犠牲にして鍛錬してきた結果が、オリンピックに出場すれば報われて、一生くいっぱぐれがないが、出場できなければ端的に言えば「ただの人」になってしまう。

前にも述べたが、日本のスポーツは「オリンピックありき」だった、明治期、嘉納治五郎がオリンピックの存在を日本に伝え、これに選手を出場させるために、全国に「体協」の前身の組織が作られ、文部省によって「体育教育」が始められた。

日本のスポーツは最初から「結果ありき」であり、競技者には勝つことがもとめられた。欧米では、競技者はPlayer(遊ぶ人、興ずる人)、Athlete(競技者)と呼ばれるが、日本では「選手=選ばれた人」なのである。スポーツは並み居る中から選ばれた人しかすることが許されなかったのだ。

市民スポーツ、生涯スポーツは、つい最近まで「ただの遊び」「ひまつぶし」と等閑視された。
指導者は、強い選手を作ることが目的であり、市民に広く、浅くスポーツの楽しみを教えることは、どうでもよいことだった。

日本人の大部分は「見る人」であり、ごく一部のエリートだけが「スポーツする人」になっている。

そういう構造の中で、この事件は起こったのだ。

テレビでは、「日本ではドーピング事件は起こったことがなかった。武士道精神があるからだ」みたいな意見があったが、日本の武士社会は、絶対的なヒエラルキーの元、陰湿な事件を無数に生んでいる。今回の事件も、選択の余地がない追い詰められた状況で起こったという点で、武士社会を思わせる。

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多くの日本人は「オリンピックが何とかしてくれる」と思っている。行き詰った経済も、政治不安も、格差社会も、オリンピックでちゃらになるように思っている。1964年の東京五輪がそうだったからだ。韓国も1988年のソウル五輪を、中国も2008年の北京五輪を経済発展の端緒にした。
単純な量的幸福を求める社会であれば、それはそうかもしれないが、相対的貧困や格差を抱える今の日本は、そんな単純な社会ではない。
堺屋太一のように「2020年の五輪の後、日本経済、社会は奈落の底に落ちる」という人もいるくらいだ。

そしてスポーツ関係者も「オリンピックに出れば何とかなる」と思っているが、この考えも改めるべきだろう。
高齢化の進展とともに、スポーツは「量」ではなく「質的転換」の時代を迎える。オリンピックに出ても、エリートのスポーツ馬鹿しか育てられない指導者よりも、多くの人に相応のスポーツを手ほどきできる指導者が重要視される時代が来るだろう。

この痛ましい事件は、「オリンピック崇拝」というせこい日本の風土が生んだ。こういう事件が起こる限り、日本は一流のスポーツ国とは言えない。


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