19世紀から20世紀にかけて活躍した俊足の外野手。
アイルランド生まれ。1865年3月に生まれたとされるが、誕生日にはやや疑問がある。同い年にはボビー・ロウ、バート・カニンガムら。

3歳の時に一家は渡米し、マサチューセッツに移住。21歳の時ニューイングランドリーグのローレンス・クラブの外野手になる。

キャリアSTATS

P-Donovan


その後、オンタリオのマイナーチーム、ロンドンを経て1890年4月19日にボストン・ビーンイーターズでメジャーデビュー。

さらにアメリカン・アソシエーションのルイビル・コロネルズ、同じくワシントン・ステーツメンを経て、リーグ崩壊とともにナショナル・リーグのワシントン・セネタースへ、さらにトレードでピッツバーグ・パイレーツに入団した。

長打はほとんどなく、コツコツと充てるタイプの打者。6年連続で3割を打っているが、19世紀末のナショナル・リーグは打高投低で4割打者がごろごろいたため、それほど良い成績ではない。

しかし俊足で518盗塁を記録。また強肩で優秀な右翼手だった。また1897、99年とプレイングマネージャーを務める。

1900年、フレッド・クラークが監督に就任すると、ドノヴァンをセントルイス・カーディナルスにトレードする。カーディナルスでもプレイングマネージャーを務めた。

20世紀にはいるとデッドボールの時代となり、リーグ平均打率は下落したが、ドノヴァンは高打率をキープ。リーグ上位に顔を出すようになる。

1902年には8800ドルを得ていたが、これは当時のMLB一の高給だった。

1904年には新興のアメリカン・リーグ、ワシントン・セネタースのプレイングマネージャーになる。

1905年、いったん引退するが、1906年、ブルックリン・スーパーバスの監督に就任。選手としても少し出場する。選手としては1907年に引退。

その後、ボストン・レッドソックスの監督も務めた。

監督成績

Donivan-MNG


監督退任後もレッドソックスでスカウトとして働く。ベーブ・ルースの才能を見出し、レッドソックスに入団させたのはドノヴァンだとされる。

その後もマイナーリーグの指導者やスカウトとして働く。マサチューセッツのフィリップアカデミーで指導していた選手の中には、ジョージ・ブッシュ大統領(パパ)もいたという。
2001年の手記の中でパパ・ブッシュはドノヴァンを「ドノヴァンの崇拝者だ」と書いている。

引退したのは1950年、85歳だった。その3年後に病没している。


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