式守伊之助のセクハラ騒動は、滑稽とか遺憾とか言うのを通り越して、悲しくなった。

事件そのものは、大した話ではない。どこかがリークしたのだろうが、酒の上でのこの手のおふざけで、すべてを失った式守伊之助は気の毒と言えば気の毒だ。

しかし、大相撲が深刻な問題に陥っている中、審判部門のトップである立行司が、泥酔するまで飲んで、セクハラまがいのことをしたという情けなさ。この式守伊之助は、どんだけ小物なのかと思う。

今、大相撲の年寄名跡は108あるが、中に「式秀」と「木瀬」というのがある。
この二つは、番付に書かれるときは「式守秀五郎」「木村瀬平」と書く。その名の通り、この二つは引退した行司がなる年寄名跡だった。
これ以外にも峰崎、永浜(今はない)、立田川などの年寄名跡を行司が次ぐこともあった。また式守伊之助が年寄り名だったこともある。

昔は、行司も力士と同様、相撲界の重要な構成員と見なされていた。立行司には年寄になる道も残されていたのだ。ちなみに立呼び出しも1人だけ親方になっている、

しかし相撲協会の組織が固まるとともに、年寄株は利権となり、力士が独占するようになった。

行司もかつては行司部屋があって独立していたが、経済的に維持できず1973年に行司は各部屋に所属することとなった。

十両格以上の行司は、力士と同様一人前とみなされるが、それ以外の行司は部屋の雑用をする。行司の重要な仕事に番付書きがある。全員がこれを担当するわけではないが、行司は字がきれいでないと務まらないとされた。
このために部屋では親方の秘書のような役割をする。礼状を書いたり、電話番をしたりする。
若いころからそういうスタッフのような仕事をしながら、本場所が始まったらアンパイアをする。気持ちの切り替えは相当難しいのではないかと思う。

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そもそも論でいえば、今の大相撲の興行を成立させたのは力士ではなかった。横綱は18世紀の将軍家斉の上覧相撲に端を発すると言われるが、腰にしめ縄を巻く横綱の演出を考えたのは相撲司五条家の代理人だった吉田司家の19世吉田追風だった。19世追風は、将軍上覧相撲で自ら行司となって谷風、小野川の相撲をさばき、相撲を取らさずに小野川を「気負け」とする裁きをして、家斉に褒められた。
ここから相撲は、幕府も公認する興行になったのだ。

行司は、相撲界のプロデューザー、吉田司家から相撲興行の主宰を託された重要な存在だった。
昭和の時代までは、その格式を知る見識ある行司がいたから行司の権威は保たれた。

式守伊之助のしょぼすぎる失脚は、行司の権威のみならず、相撲の権威が失墜したことを意味する。

相撲だけではない。「審判」「ジャッジ」のステイタスが貶められ、あたかも端役のようになることは、そのスポーツの権威、公平性、信頼性が堕ちることを意味する。
プロ野球も同様だと言っておきたい。


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