19世紀最高の二塁手と言われる。キャリアの大部分で、素手で守っていた。ずいぶん昔の選手である。
1859年11月生まれ。同い年にバック・ユーイング、チャーリー・コ三スキー、ミッキー・ウェルチ、ハンク・オデイ。

馬具屋の5人兄弟の4番目としてニューヨークに生まれ、イリノイに引っ越す。
1877年にはノースウェスト・リーグのダベンポートというセミプロチームでプレーをはじめる。一時、会社に勤めるが1882年、アメリカン・アソシエーションのシンシナティ・レッドストッキングスに入団。

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5月2日のデビュー戦、二塁手として出場したマクフィーは無様なプレーをしてあざけりを受けたが、以後、奮起し、リーグ屈指の二塁手になる。小柄だが俊敏だった。

併殺数の多さ、守備率の高さでリーグ屈指となる。また打者としては1番を打つ。1886年には本塁打王になるが、このうち7本はランニングホームランだった。

俊足でもあり、マクフィーは568盗塁しているとされるが、この数字には疑問があるとされる。しかしダブルスチールが得意、足もマクフィーの武器だった。

19世紀末になると、多くの野手がグローブを使うようになるが、マクフィーは素手で守った。1895年にようやくグローブを使うようになる。

1897年に足首を故障して戦線離脱するが、それ以外は常にレギュラーとしてプレー。

オリオールズ時代のジョー・ケリーがマクフィーの獲得を画策したが、マクフィーはこれに応じず1899年39歳で引退。この時点でMLBで最も有名な二塁手だった。

2258安打はレッズ史上4位。

1901、2年と監督を務める。

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以後、スカウトとしてレッズのために働く。

1932年には彼の死亡ニュースが流れ、大きく取り上げられたが誤報だった。1943年に死亡。

死から57年後の2000年、ベテランズ委員会によって殿堂入りが決まった。


1974年星野仙一、全登板成績【巨人を止めた最多セーブ&沢村賞】


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