本来、人間性を養ったり、技術、体力、知識を身に着けたり、礼儀作法を身に着けたり、チームワークを学んだり、つまり子供が将来役立つ知識、経験を身に着けるのが目的=教育的目的であるはずの「高校野球」が、目の前の「勝利」「甲子園」を追い求めるものに変質している。堺ビッグボーイズの野球指導者、阪長友仁さんはそういった。


教育の一環であるはずの野球が、勝利至上主義へと変質している。今の野球を取り巻くさまざまな問題の根っこには、これがあるようだ。

しかしこうした「変質」は、野球だけでなく、すべての部活で多かれ少なかれ怒っている。
さらに言えば、部活だけでなく、日本の教育そのものも「目先の目標を追う」ものへと変質している。

そもそも「教育」とは、人が現代社会で生きていくためのさまざまな「知識」「知恵」「技術」などを習得するのが目的だ。しかし、日本の学校教育は、実質的に「いい学校に入る」ことを目的にしている。
勉強は、生涯役に立つ「知識」「知恵」を習得するものであるはずだが、それが「受験勉強」に置き換わっている。
暗記や受験技術が重視される。かつては「受験」は「塾」の持ち場だったが、今は学校の授業で教えている。
暗記や類題を解く練習などが、学校の授業で行われている。
そうした受験技術は、学校に合格した瞬間から不要になる。難しい単語や数学、物理の計算式などは二度と使うことはない。

もちろん、受験勉強が全く無意味なわけではない。「受験」という目標がなければ、だれも進んで膨大な情報を暗記したり、難問に挑戦したりはしないだろう。
明治維新後の日本が急速に発展したのは、江戸時代以前の日本人の知的レベルが高かったことに加えて、西洋の知識を詰め込み式で覚えさせる「受験制度」のおかげだ。
百姓でも商人でも、武士でも、勉強をして学校に入りさせすれば、栄達の道が開けている。「末は博士か大臣か」というやつだ。日本の教育はそういうやりかたで広がり、ここまで来た。民度が高い国民を生んだのは「詰め込み」主体の日本教育の成果だろう。

しかしこうした教育は常に弊害をはらんでいる。つまり「学校に入ったら」「資格を取ったら」あとは「勉強をしない」という弊害だ。
本来、勉強は未来投資として行うものであり、学歴や資格のためではない。しかし学歴、資格偏重の教育体制では、本来「手段」であるはずの「学歴」「資格」が、「目的」に変化してしまうのだ。

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高校野球でも全く同じことが起きている。試合に勝つこと、甲子園に出場することは、野球のスキルアップ、チームワークの醸成などの「手段」だったはずだ。しかし実際には「勝利」と「甲子園」はすべてを犠牲にして手にすべきものになっている。
このために「勝利のために、体を壊してまで投げる」ことや、「他のすべてを犠牲にして異様な長時間練習する」ことが、正当であるかのように言われる。

野球が「教育の一環」であり、長い人生を生き抜くための知恵、技術、健康を身につけさせるためのものであるなら、「猛練習の挙句の怪我で野球を断念する」「甲子園で燃え尽きる」ことなど、正当化できるはずもない。

そのことをちゃんと説明できない指導者がなんと多いことか。これも「野球離れ」の大きな原因になっている。

高校野球における「甲子園」は「疑似学歴化している」と言っても良いと思う。

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