また読者へのリターンだが、この問題、過去にもいろいろ議論をしてきた。
高校野球は、人生の通過点に過ぎない。野球選手にとっても単なるユースの一時期のはずだが、一部に「甲子園で燃え尽きたい」と願う生徒もいる。これを容認すべきか否か。容認するとすれば「教育」といえるのか。

高校野球は、学校の管理下で行われている「部活」であり、「教育の一環」である。
「学校教育」とは、子供が成人した時に健全な社会生活を送ることができるための「準備」であり「将来投資」である。高校野球と言えど、その概念から逸脱するものではない。

しかし「甲子園」は「未来」ではなく在学中だから「現在」である。現在の目標のために、教育機関を使って鍛錬をするのは、教育の本分から逸脱している。

さらに、学校は教育機関であるが、その前提として学校に通ってくる生徒の「健康」「安全」を保証しなければならない。子供が生命、健康の危機に脅かされない環境に居ることが担保されて、初めて「教育」は成り立つ。

しかし「甲子園で燃焼したい」生徒は、そのためにすべてをなげうつ。故障や怪我のリスクがあっても猛練習をし、無理に試合に出たりする。「健康面」での安全が担保できない可能性が大いにある。
指導者が教育者であるならば、たとえ生徒が「ここで燃え尽きたい」といってもそれを止める義務、責任があると考えられる。

そして「甲子園」は頑張れば行けるというたやすいものではない。「甲子園で燃焼したい」と思う子供がいけなかったときのケアはできるのか。成人であれば自己責任ということになろうが、16~18歳の子供に「いけなかったのはお前の努力が足りなかったからだ」と放り出すことは、教育の立場からはできないと考える。

さらに「甲子園で燃え尽きたい」と思う子と、「以後も野球を続けたい」と思う子が同じ野球部に居た場合、指導者はどのような教育をすべきなのか。仮に「燃え尽き志望」の投手と、「続けたい」投手がいたとして、大会が始まれば「燃え尽き志望」の投手だけに、過酷な登板を強いることが可能なのか?

こう考えれば「甲子園で燃え尽きたい」という生徒の希望を、教育者として受け入れることは不可能なことがわかるはずだ。

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しかし、実際には日本にはそういうことがたくさん存在する。「オリンピックのためにすべてをなげうつ選手」、「東大合格のために、受験対策だけをする高校生」、これらは「教育」とは言えないが、容認されている。オリンピック、東大という「箔」がつけば、世渡りがしやすいからだ。日本は、実力や人格よりも「肩書」を重視する。だから有名なアスリートの不祥事が起こったりするのだ。「甲子園」はそれほどのステイタスではないが、名誉なことであり、容認されている。

「例え甲子園にいけなくても、努力したことはその後の人生で役に立つ」とは、よく言われることだが、それは気休めに過ぎない。勉強せず野球馬鹿のまま大人になっても、肩やひじが使えなくなっても、それを「プラスだ」ということは可能だ。後付けで何とでもいえるのだ。
仮に無茶な練習をしすぎて死んだ子供がいたとしても「彼の死は無駄ではなかった」ということも可能だ。
しかし、その子供が最初からそれを希望していたわけでは毛頭ないことを考えれば、こうした言い草は、そういう子供を産んだ教育者の責任逃れであり、詭弁に過ぎない。

高野連の八田会長は、インタビューで甲子園で燃え尽きることを容認するかのような発言をした。嘆かわしい限りだが、高野連のトップでさえその程度の認識なのだ。

そうした風潮が一般社会にも根強く残っているのは事実だが、それは「教育」ではない。自分の人生を賭博のようにリスクにさらすのは、そして教育者がそれを容認するのは、どんなことであれ愚かである。

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たばともさんのクラシックSTATS鑑賞、5周年である。ぱちぱちぱち
5年目になりました


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