昨日の羽生結弦のショートプログラムは、沖縄、久米島の楽天キャンプを見た帰りのフェリーの中で見た。船のうねりを感じながら、時々電波状況が悪くなる中、実況を見た。おばさん二人が喜んでいたが、ひげのおっさんは全く関心が内容だった。今日のフリーは、石垣島までの飛行機に乗っている間に終わっていた、石垣市の球場で、ファンがざわめいていた。
確かに、羽生結弦は神がかっていた。これまで、日本にも外国にもたくさんの天才フィギュアスケーターが出たが、素人目にも羽生はレベルが違う感じがした。
生身の男性が滑っているというよりは、なにものかが憑依して人の形を借りて演技をしているような感じがした。性を感じさせない不思議な雰囲気も、そういたイメージを強めた。

どんなジャンルでも、長く、広く続けていれば「天才」というものが現れるものなのだ。それは確率論ではない。また指導者が頑張ったからと言って作られるものではない。
羽生は喘息の持病があり、体質的に太ることができない。昔であれば「蒲柳の質」と言われそうな少年だったが、その細さがだれにも負けない繊細さにつながった。体重が軽いことが、ジャンプの高さを生んだ。こういうのを「天の配剤」というのだろう。
羽生はどんな指導者によってつくられたのでもなく、自らの才能を信じるままに磨き上げここまできたのだろう。

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全く偶然にも、今日、同じ「羽生」という名の第一人者が、中学生に負けるという歴史的なできごとも起こった。藤井聡太という中学生が、将棋史上最強の棋士羽生善治を正面から破ったのだ。
将棋に至っては、私は全く分からないが、ここでも一時代を築いた「天才」が新たなる「天才」に、時代を譲り明け渡そうとしているのだ。
彼らも「天の配剤」があって、才能を究極まで伸ばし、人為の領域を超えた業績を成し遂げたのだろう。

「天才たち」を目の当たりにして、私たちに言えることは「見ること以外に何もできない」ということだ。その周辺でいかに騒いでも、彼らの本質に何ら迫ることはできない。

ショートプログラムの中継は地上波で見た。中居正広がMCを務めていたが、羽生の演技が終わった後には、彼の存在はすっかりどこかへ消えてしまった。特に民放系の大騒ぎは、いらざる業であり、天才の偉業の前では、どうでもよいことなのだ。

野球もそうだ。本当にすごい才能が、目の前で躍動しているときに、私たちにできるのは、ただ「見ること」でしかない。
歴史が音を立てて変わっていく様を、簡単の声を挙げながら一生懸命見ること。それだけがファンにできることなのだ。

私はこれからも「見ること」に徹しようと思う。


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