毎日新聞

学校の部活動や地域スポーツの活性化のため、指導者の国家資格を創設する構想が浮上している。自民党が14日、スポーツ立国調査会内に地域スポーツのあり方を検討する小委員会を設置して議論を始めた。2020年東京五輪・パラリンピック後を見据え、部活動への外部人材の登用や、引退した選手のセカンドキャリアの受け皿をつくりスポーツ振興につなげたい考えだ。
この話は今のスポーツ、部活の流れに沿っているように見えるが、中身の議論が全然ない。

少子化の進行によって、学校単位の部活の維持が難しくなるというのは一面の真実だ。
同時に、部活の過熱、ブラック部活化によって部活指導をする教員の負担も増えている。

それを考えれば、部活の機能を学校から切り離し、別の法人で運営することは妥当性がある。
そうすべきだと思う。学校外のスポーツクラブの指導者のステイタスを安定させるために、国家資格を設けるのも悪い話ではない。

しかしそうした外側の問題よりも、今の学校部活の「体質」「内容」の問題がより重要だ。
今の日本の部活は、高校野球に代表されるように「成果主義」「勝利至上主義」におおわれている。本来健康の維持やスポーツの楽しみを子供に手ほどきするのが第一義であるはずが、「勝つこと」「全国大会に出ること」「賞を獲得すること」が何よりの目標になっている。

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そのために指導者は、猛練習を課す。また、部員、選手を選別し、できない子には、試合や発表会の出場機会が奪われることもある。勝利に向けて突き進む指導者には、絶対服従。先輩後輩の上下関係も厳しく、礼儀作法にも極めてうるさい。
要するに戦前の軍隊を模したようなやり方が、いまだに続いている。むしろ近年、その傾向がますます強くなっている。
良い指導者とは「結果を残す指導者」であり、「生徒を厳しく指導する指導者」である。父母の多くも、そういう指導者を熱烈に支持している。

その結果として、中学、高校の部活で活躍できるのは、一握りの生徒になり、多くの生徒は応援や裏方に回ることになる。

こうした体質を改善することなく、部活のアウトソーシングをするのは大変危険だ。学校の一部としての部活には、まだ「教育の一環」という建前が残っているが、外部になればその建前はなくなる。「成果第一主義」が、あからさまに前面に出る可能性があるだろう。

自民党案では、引退したアスリートの働き口としてそういう外部部活を期待し、彼らに国家資格を与えようとしているようだが、「勝利至上主義」の勝利者であるアスリートが、国家お墨付き指導者になることは「勝利至上主義」の再生産を助長するだけではないか。

自民党の議員たちは、それによって「メダルが何個増えた」という成果を目指したいのだろうが、五輪や世界大会のメダルがいくつ増えても、国民生活には何の関係もない。「国威発揚」のような、内容のない空騒ぎに利用されるだけだ。
スポーツエリートを生み出す教育と、国民がスポーツを享受する権利を行使することは、直接の関係はないのだ。

エリートアスリート上りの指導者は、子供の素質を見出し、選別して育て上げるのは上手だろうが、下手な子、運動神経が良くない子供にスポーツの楽しみを教え、生涯スポーツを楽しむことができるようにする教育はできないのではないか。

最大多数の幸福を考えれば、部活指導で一番大事なのは「へたくそな部員」が、こころゆくまで部活を楽しむことができる環境を整え、指導をすることだ。

スポーツ指導者に国家資格を与えるのであれば、現役時代の実績や、エリートアスリートを育て上げる能力、技術ではなく、プレイヤーズファーストを重んじ、生徒の人権や健康を守る認識があること。そして生徒のフィジカル、メンタルでの健康管理ができることを第一にすべきだろう。

敢えて言うが、才能のある子供が集まれば、指導者が単細胞のスパルタでも結果は出るのだ。しかしより多くの子供に、スポーツを好きになってもらい、生涯スポーツを愛好してもらうための教育は、まともな教育者でなければできない。

そういう部分を踏まえることなく、アスリート上りに国家資格を与え、外部に部活を委託することは、まさに「仏作って魂入れず」であり、日本スポーツの現場をさらに荒廃させるだけだろう。



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