コメント欄で椎名次郎さんがそう書いた。確かにそうである。

【原理主義】
・キリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)。対比語は自由主義神学(リベラル・リベラリズム)、近代主義(モダニスト)、世俗主義など。
・上記より派生し、広く聖典や教義を墨守する信仰や立場(イスラム原理主義など)、更には基本的な原理原則を厳格に守ろうとする立場(市場原理主義など)。対比語は世俗主義、相対主義、多元主義など。


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野球で言えば「甲子園」で行われる全国大会で勝ち進むことを「無上の目標」とし、そのためにすべてをささげることを「善」とし、賛美、賞賛するような思想と言うことになろうか。

元をたどれば、甲子園原理主義は、飛田穂洲の「一球入魂」までさかのぼるのではないか。早慶戦の頃の早稲田の監督だった飛田は、日本野球の原型を作った。「犠牲の精神」「個人主義の排除」「エース中心主義」「守備の重視」「指導者、母校、郷土への絶対的な忠誠」「練習第一主義」など、飛田は日本のアマチュア野球の背骨を作った。

さらに飛田は1926年に朝日新聞に入社、甲子園で行われる中等学校野球の論評を長く行い「高校野球とはかくあるべし」をほぼ形作った。

飛田は軍部の圧力が強くなり、野球排撃論が台頭すると「野球の精神は、精強な兵隊を作るのにも役立つ」という論理を展開し、野球の存続のために、軍部に対して妥協。この頃から野球には「軍隊」の彩が濃厚になる。

戦後、アメリカによって新しい野球の考え方がもたらされ、全国の少年が「野球ごっこ」に夢中になる。またプロ野球が憧れの的になったが、戦後も朝日新聞で学生野球を担当した飛田は、プロ野球とは一線を画して、精神性の高い野球論を展開。大学野球、高校野球の「精神的支柱」として1960年代まで健筆をふるうのだ。

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この「一球入魂」に代表される飛田のアマチュア野球思想が、甲子園を頂点とする「高校野球」をここまで引っ張ってきた。
高校野球の価値基準は「高校生らしさ」と言う言葉で象徴されている。
「ひたむき」で「努力を忘れず」「あきらめず」「礼儀正しく」「指導者や先輩には絶対服従」と言う基本姿勢を今も堅持している。

飛田の時代から受け継がれたそうした徳目は、決して邪悪なものではなかった。まじめで努力家の日本人の美質をよく受け継いでいたとは思う。
しかし、どんな思想も、時代とともに変化しなければならない。改めるべきものは改め、追加すべきものは追加すべきだったろう。
しかし飛田の後継者は「甲子園」を絶対的なものとし、その不変の伝統をそのまま受け継ぐことこそが最上の目的であると規定し、ここに「甲子園原理主義」が生まれたのだ。

「原理主義」は、現実から背を向け「原理」を堅持するために多くのものを犠牲にする。

イスラム原理主義が、自爆テロを生むことと、甲子園原理主義が、炎天下での「残酷ショー」を繰り広げることを同列に語ることはできないだろうが、ともに「個人の命」を軽んじている点は、よく似ているように思う。

そして「狂気」の色がまとわりついている点も。



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