ujihata


今の高野連、八田会長は「お飾り」である。

同志社大の教授、学長を歴任し、今は総長だ。私事に渡るがうちの娘は今年、同志社大を卒業した。卒業式で、荘重な衣装を身にまとって朗々と新島襄の話をする八田総長を父兄席で見ながら、同じ調子で高野連のトップも勤めているのだろうと思った。

昨日の高野連会長の講評。
「選手の皆さまの奮闘により素晴らしい試合の連続となりました。阪神甲子園球場を訪れたお客様の数は、史上初めて100万人を突破して最多の101万5000人にのぼりました」
中略
「金足農業の選手の皆さん、準優勝おめでとうございます。秋田大会からひとりでマウンドを守る吉田投手を他の選手が盛り立てる姿は目標に向かって全員が一丸となる高校野球のお手本のようなチームでした」

ここには、危機感のかけらもない。
酷暑対策、投手の酷使の問題などに多くの批判が寄せられる中で、能天気な礼賛に終始した。田舎の小学校の校長先生でももう少し気の利いた話をするのではないか。

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高野連の会長といえば、昔は良くも悪くもカリスマだった。
有名な佐伯達夫会長は、戦後、高校野球(中等学校野球)の再開に、尽力した。高野連が戦後、独立した団体になったのも、軍部や文部省(当時)などの影響を排除し、自分たちで健全性を維持しようという佐伯の強い意志があったからだ。

牧野直隆会長は、1991年夏の甲子園で、肘を骨折しながら投げた大野倫の投球に危機感を抱き、大会前検診を導入した。

これらの判断は、その後、いろいろな問題を生みはしたが、その時点でのトップダウンとして、それなりに評価できるものだった。

高野連会長の発言が「あまり野球をよく知らない普通のおじさんのたわごと」レベルに堕ちたのは、6代目会長の奥島孝康からだろう。
奥間会長は2012年夏の甲子園の開会式で、
「とりわけ残念なのは、花巻東の大谷投手をこの甲子園で見られなかったことでした」と発言し、顰蹙を買った。

高野連はかつて、トップダウン型の組織だったが、奥島会長以降、トップはお飾りとなり、事務局長以下の合議制となっている。このために、さまざまな思惑が交錯し、なにごとによらず決まらない、決められない組織になっている。

佐伯会長ありせば、今夏のような状況に対して、強い指導力を発揮していた可能性もあるだろう。

呆れんばかりの八田会長の講評を聞いて、改革への道は程遠いと思った。



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