昔から宮嶋泰子というアナウンサーが鼻について仕方がなかった。この人はスポーツを取材しているのではなく、スポーツ選手を題材に「お話」を捏造するのが得意だった。
玉木正之さんが良く指摘することに「スポーツを語る」のか「スポーツをダシに文学や芸術を作る」のかという話がある。

昔の日本には、ただ試合結果をそのまま伝えるだけ、選手の言ったことをそのまま伝えるだけの新聞報道しかなかった。そこに田中英光の「オリンポスの果実」のようなスポーツに題材をとった小説が生まれ、日本にもスポーツ文学が誕生する。初期の吉村昭にはボクシングを扱った「孤独な噴水」という佳品がある。
これらは、スポーツを題材にした文学だ。そこで描かれているスポーツシーンは、実話に基づいていたとしても、そこに作家の切り口が入り、味付けがされ、フィクションになっている。

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玉木さんは、作家がスポーツの色を付けてしまうことを問題視し、それを「本当のスポーツジャーナリズムではない」といったわけだ。欧米では主流であるスポーツジャーナリズムが日本には存在しないことを嘆いたのだ。

Number創刊号に掲載された「江夏の21球」は果たして「スポーツジャーナリズム」なのか、文学なのか。初期のNumberに掲載された海老沢泰久さんの作品は、ご本人は「小説」と言っていたが、ジャーナリズムとしての価値があるのかどうか。

端的に言えば、スポーツジャーナリズムとは、アスリートの能力、感性、パフォーマンスをできるだけそのまま読者に伝えようとする不断の努力であって、それを素材にいろいろ味付けをして「作品」にしてしまうこととは、似て非なるものだと言えよう。

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宮嶋泰子はアナウンサーでありながらディレクションもし、ストーリーを作り上げる能力もあった。その能力を活かして、マラソンや体操や、アイススケートやパラスポーツなどの分野で、物語性の高いテレビ番組をたくさん作った。
それは野球など人気スポーツ以外のスポーツへの関心を高めるという点では、一定の功績があったと思う。確かに出始めは新鮮で面白かったのだ。しかし、私はすぐに食傷した。スポーツそのものではなく、こってりと味付けをしたフィクションの押しつけがましさ、くどさが嫌になったのだ。

宮嶋演出が当たってから、この亜流が民放のスポーツ番組にうじゃうじゃと出現したのだ。最初から「感動」がお約束になっている予定調和的なスポーツ番組が。
「感動をありがとう」という言葉に象徴されるこの手の番組を量産するうちに、日本の民放のスポーツ番組はどんどんダメになった。

その点では宮嶋泰子は「日本のスポーツ番組をダメにした張本人」の一人だと私は思っている。


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