私は小学校低学年のころから、南海の野村克也が大好きだった。当時はテレビでめったに野村を見ることはなかったが、翌日の新聞のボックススコアで野村の成績を見るのが日課だった。

うちの祖母は近大野球部の近くでパンや駄菓子を売る店をしていた。そこによく遊びに来ていて、うちのおばとも仲が良かった藤原満が南海に行ったことも、私を南海ファンにさせる原因の一つになった。

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ただそのころから、私は数字を一生懸命追いかけていた。1972年、37歳の野村は101打点で5年ぶりに打点王、翌1973年はノンタイトルだったが最初の2シーズン制を「死んだふり作戦」で制した功もあり、MVPに選ばれた。中学生になっていた私は野村の「知力」のようなものを感じ始めていた。

しかし翌1974年、野村は故障もあって83試合の出場にとどまり12本塁打45打点、何より打率.211というひどさだった。しかし監督野村は選手野村を「4番」から外さなかった。当時、門田博光が台頭していたが、門田がどんなに打っても野村が4番だったのだ。9月に入って門田4番野村5番というオーダーも見られるようになったが、このあたりに野村の我執のようなものを感じた。

門田の成長は野村のライバル心を掻き立てたようで、翌年には40歳で本塁打、打点で門田を上回る。門田の存在が野村の選手寿命を延ばしているという一面はあっただろう。野村が門田を「はぶてとる」といったとの報道もあり、二人の仲は良くなかったようだ。

1976年、77年と野村の成績は下降線を描き、77年オフにはサッチーが登場して、野村は南海を追われた。江夏豊と柏原純一も南海を退団。

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野村は金田正一に誘われてロッテに入団。それを悲観して村上公康が引退。さらに西武へ。
以後の野村は意地になって野球をしている感が強かった。相変わらず我執が強かった。もう大人になっていた私は、野村を不実なことをして田舎に引き込んだ親戚のような、疎ましさの混じった目で見るようになった。あえて言えば「いつ辞めるのか」と思っていた。

1980年、野村は西武2年目、前年はリードや勝負強い打撃が評価されたが、この年は出場機会が減り、根本陸夫監督も野村を持て余している感があった。

野村の述懐によればこの年の9月28日、生まれて初めて代打を送られたことで引退を決意したという。この時の代打は鈴木葉留彦だった。野村は鈴木に「凡退しろ」と願った自分の心理にショックを受けて「引き時」を悟ったという。

これらはずっと後から知ったことだ。野村は10月8日まで試合に出続け、シーズン終了後も何の発表もなかった。
11月15日になって野村克也の引退が発表される。野村は「引退を決意していた」というが、実際には球団に引導を渡されたようだ。
翌日の西武球場のファン感謝祭で野村は引退セレモニーをした。紅白戦で打席に立った野村は平凡なフライを打ったが、守備側は誰も捕球せず野村は息を切らせてダイヤモンドを一周。スタンドからは笑いがもれた。そのあとはナインが一人ずつマウンドに上がって一言コメントを言って野村にボールを投げた。10分ほどかかった。今から考えればずいぶん悠長なものだが、悪いものではなかった。

野村克也という球界屈指の選手の引き際としては、地味なものではあったが、これで十分だったとも思う。今のような真剣勝負の公式戦に「私事」を混入させる公私混同に比べれば、寂しくはあるが、余韻のある良い引き際だった。

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