今から30年前、私は今よりほんの少し若かったが、今と同じように文章を書いていた。当時は広告制作会社に勤めていた。
この年の開幕直後に南海電鉄の川勝傳会長が死去。川勝会長は南海ホークスのオーナーだった。
その直後から身売りの噂がスポーツ紙に載った。当時は球団の目を恐れて球団発表の情報しか書かない今のスポーツ紙とは異なり、揣摩臆測の類も書いた。

しかし私はそれを信じず、大阪球場に通い続けた。この年は門田博光が素晴らしく好調で、本塁打を連発した。40歳だったが衰えは微塵も感じさせなかった。
バットを垂直に立てて構えるとピタッと動かない、投球が始まるとヘッドの先を軽くまわしつつタイミングを合わせて思い切り振りぬく。名人芸のようだった。
どういう案件だったか忘れたが、私はこの頃少し干されていて面白くない感じだったので、6時になると大阪淀屋橋にあった会社を出て、タクシーに乗って大阪球場に通った。うまくすれば10分、2メーター。6時30分のプレイボールに間に合った。

恐らく、私の生涯で一番野球の試合を見た年だっただろう。ホークスの試合を50試合はみただろうか。

門田は本塁打、打点の二冠が確実な様相になっていたが、9月14日に南海のダイエーへの身売りと福岡への移転が発表された。これは本当に衝撃だった。

私はすぐに大阪球場までシーズン最終戦のチケットを買いに行った。事務所には他に客はいなかったが、一塁側のチケットは売り切れていて、三塁側しか買えなかった。今まで前売り券を買ったことなどなかったので驚いた。

このころ大阪球場下にできたハードロックカフェで遅い昼飯を食べていると、店員が「ホークスが身売りになったら、ここも終わるんかなあ」と仲間と話しているのを聞いた。

10月に入っていよいよ「南海身売り」を実感し始めた。13日の阪急戦で、阪急の応援団長が「南海ホークス、さいなら、お前らも九州行くんか」と野次った。その1週間後に阪急も身売りになるとは知る由もない。

10月15日の大阪球場での近鉄との最終戦は、32000の大入りだった。13日の阪急戦もガラガラだったから、私は「最終戦だけ来たってしゃーないやろ」と思った。
ちなみに翌日は藤井寺球場で近鉄-南海戦があったが、これも32000の超満員だった。

南海特集をした今はなき「月刊SEMBA」から

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南海ファンは大声で応援した。よく覚えているのは、試合が終わってグランドに整列したナインの前で杉浦忠監督が「行ってまいります」と言ったときに、その横にいた南海電鉄の社長で、南海オーナーだった吉村茂夫社長に「よしむらー、おまえもダイエーに買うてもらえー」とヤジが飛んだことだ。
当時私がいた会社は、南海電鉄をクライアントにしていたので、吉村社長の顔は知っていた。世界長という和歌山の酒造メーカーの御曹司で、大阪球場にも酒を入れていた。私も少し憎らしく思ったものだ。

南海ホークスの歌。


10月19日の「10.19」は、お初天神通りの飲み屋のテレビで見ていた。酒ではなく仕事の途中で晩飯を食べるために店に入ったのだが、試合展開があまりにもドラマチックで、途中からビールを頼んだ。店のおやっさんも気を利かせて、酒のアテをもってきてくれ、店全体でテレビにくぎ付けになった。

放送時間が終了になったので、赤い顔をして会社に戻ったが、「ニュースステーション」がまだ試合中継をやっているということで、会社でも試合観戦をした。当時はそれが許される空気があった。

ロッテ有藤監督の長い抗議は今でいえば「空気を読まない」ことのように思えた。
近鉄の敗退が決まって脱力感を覚えた。
この日、阪急の「オリエントリース」への身売りが発表され、夕刊フジに載ったのだ。
私は「南海ホークス、さいならー」と言った応援団長の顔を思い出した。

私は酒造メーカーを担当していたが、11月に入ると「ダイエー・ホークスラベル」の小型瓶の日本酒の企画を受注した。メーカーの担当者も南海ファンで、よく一緒に球場に行ったが、お互いにがっかりしながら仕事をしていた。「新ユニフォーム、森英恵のデザインやて」「じゃらじゃらしたことで」みたいな話をした。

12月に入り、昭和天皇の病状が思わしくないことがたびたび報道された。「下血」と言う言葉をその時知った。私が担当する酒造メーカーは、毎年「干支ラベル」という正月向けの商品を出していたが、来年、それが出せるかどうか、非常にもめた。すったもんだの挙句に中止になった。

昭和天皇は重篤な状態のまま年を越し、1989年1月7日に崩御。昭和64年は7日で終わった。

思えば30年前は、えらい年ではあった。


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