既存メディアの記者と、フリージャーナリストの違いは「書く姿勢」でもはっきり表れる。

私もいろいろな現場で記者や他のライターと一緒になる。同じように話を聞き、写真を撮るが、情報の発信量は大きく異なっている。
新聞メディアのライターは、野球の記事であれば、せいぜい400字程度しか書かない。たくさんの情報を入手しても、そのサマリーしか記事にはしない。込み入った事情にはほとんど触れず、表面的なことしか伝えない。
それは「紙幅」という制約があるからだろうが、新聞記者は「知っていても書かない」ことが非常に多い。あるベテランの記者から「俺たちは、10の取材をしても1しか書かない」と自慢されたことがある。だから記事に深みが出るとでも言いたかったのだろうが、私には何がいいのか理解できなかった。

司馬遼太郎が執筆を始めると、大阪府内の古書店の棚がごそっと空いたと言われる。作家が古書店に赴いて関連書をトラックで棚ごと買い付けたからだ。司馬遼太郎は膨大な資料を読み込んでから作品を書いた。しかし、司馬遼太郎は小説家であり、膨大な資料を基にフィクションを書いたのだ。
事実をそのままタイムリーに伝えるジャーナリズムとは違うはずだ。

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フリーランスは基本的に取材したことは総て記事にしようとする。自費で現場に赴き、元手もかかっている。売らなければ収入はないから、獲れ高を全部記事にしようとする。もちろん取捨選択はあるだろうが、基本姿勢はこうなる。

書いても書かなくても自分の懐が痛まない記者と、書かないと食えないライターの差がここに出ると言えるだろう。

記者は「書かないこと」をいろいろな力に代える。都合の悪いことを書かないことで、取材源に恩を売ることもできる。「知っている」ことをほのめかすことで、取材源からさらなる情報を引き出すこともできる。また「知っているが相手の都合の悪いことは書かない」ことで取材源の信頼を得ることもある。
「書かないこと」を活用することで、さらなる情報を得るのであれば、それは高等戦術といるが、「書かないこと」で恩義を売って取材源と癒着するのは、ジャーナリズムの自殺だろう。しかし多くの既存メディアの記者は、取材源とそういう関係になっている。プロ野球の記者などまさにそうだ。

堅苦しく言えば、言論機関は国民の「知る権利」の代理人として取材をしている。そうして得た情報を自分の都合で出さないのは「公的使命を帯びて得た情報を私物化している」ということができる。
既存メディアは、特権的な地位を得ながら、日常的に「情報の私腹」を肥やしている。だから信用ならないのだ。

安田純平さんの話に戻るなら、安田さんは既存メディアが行けない地に足を踏み入れた。そのことも重要ではあったが、既存メディアなら立場上書かなかったこと、書けなかったことも書いてきた。本質的にはそこが重要だ。

同じフリーランスとはいえ、立場も使命も天と地ほども違うが、現代の日本でフリーランスがいかに重要かということが言いたかった。

安田さんの今後の著作に期待したい。

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