「球数制限」をはじめとして、多くの改革がかなりのスピードで進行しているが、これに抵抗しているものは何なのか、を考えて、結局「精神論」なのではないかと思うようになった。
「球数制限」に対する反論は「なぜ100球なのか、99球なら大丈夫なのか」という不勉強としか言いようのない幼稚なレベルのものもあるが、大きいのが「子供たちの燃え尽きたいという気持ちを大事にしたい」というものだ。これは「精神論」のうちだろう。

古い指導者は、あいさつや礼儀作法、さらに猛練習を通して子供の「精神を鍛える」とも言った。これも「精神論」だ。精神を鍛えれば、厳しい練習にも耐えることができるし、強い相手とも互角に戦うことができる、というものだ。

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「精神論」は、具体的な「技術論」とは相いれない。「こうしたほうがよりうまくいく」というような合理性を否定することが多い。「技術」よりも「精神」のほうが優先すると思っているからだ。

昨日の「ぐんま野球フェスタ2019」で、仁志敏久さんは、ゴロの捕球で従来の
「腰を落として体の正面で捕球する」を
「この考えは古くて、今の野球では役に立たない」とばっさり切り捨てて
「右足、左足と踏み出して、流れの中でボールを処理する」と説明した。
また少年たちにジャンピングスローもさせているといった。
「体の正面で捕らんか!」と言っている古い指導者は今、どれくらいいるのか知らないが、そういう「師匠の教え」を真っ向から否定した。

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日本の「精神論」は、理解し、納得して身に着けるものではなく、目上の人、師匠から「押し付けられるもの」ということになっている。これを盲目的に信じ、ひたすら追い求めるものが「最終勝利者」になるという理屈だ。

これはさかのぼれば、禅宗の僧侶の修行に行き着くのではないかと思う。禅宗では、僧侶は師匠に盲従し、これをあがめたてる。師匠が死ねば、僧侶はその墓(塔)のほとり(頭)に庵を建てて、ひたすら経を読む。寺院の子院である塔頭(たっちゅう)は、このようにしてできたのだが、とにかく師匠に生涯ついていくのが良いとされた。

「精神論」はエスカレートすると「合理性」からどんどん乖離していく。昔、圧倒的な兵力のアメリカと戦争をしたとき、当時の軍部は「日本には兵力がないが、大和魂がある。1人の日本人が10人のアメリカ兵を殺せば、必ず勝つことができる」と本気で言ったが、そういう狂気が往々にして起こるのだ。
昨夏の甲子園での吉田輝星も「精神論」の領域で投げていたのは明らかだ。決勝戦などは、科学的な客観性ではなく「精神力で大阪桐蔭に勝つ」というレベルだったのだろう。

日本人が特別に精神が優れている、鍛えられているというのは、私は単なる錯覚だと思う。目上の人に盲従して、辛いことや厳しいことに耐えるのは、肉体的には厳しいが、自分で考えたり、責任をとったりしなくて良い分、精神的には楽だと思う。変な言い方だが日本人の好きな「精神論」の正体は「知的怠惰」ではないかと思うのだ。

すでに里崎智也、川口和久のように「トンデモ反論」を展開する野球人が出てきているが、今後、野球改革が進めば、必ず「精神論」を持ち出す人がたくさん出てくる。彼らの多くは、新しいスポーツの考え方やスポーツ医学などは何も学んでいない。まさに「知的怠惰」そのものだ。また、誰かに盲従してきたから感性のレベルでも鈍感なのだが、自分自身ではそういう焼き冷ましのもちのような固い頭を「精神的に鍛えられている」と思っている。
理解力が低いから、論破するのは大変だが、彼らにはっきりとNOを突きつけないと、その先は開けないだろう。



広島総合・広島市民・マツダS・シーズン最多本塁打打者/1950~1986、2007~2018

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