野球部だけではないが、スポーツ指導者の暴力沙汰が明るみ出るたびに「熱心な指導のあまりに手を出してしまった」みたいな言い訳がでてくる。これは完全な間違いだ。

昭和の昔、日本の教育界では、こういうことをよく言ったのだ。「熱心な先生で、時には生徒を大声で怒鳴ることもあった」とか「愛の鞭をふるうこともあった」などと言われたものだ。
一方で、大声も出さず、手も上げない指導者は「物足りない」「熱心さが足りないのではないか」とも言われた。

しかしスポーツ指導は、本来、暴力やパワハラとは無縁のものだ。どんなに熱心に指導をしても、それが暴力や罵声につながることはない。
本人だけでなく学校やメディアも「熱心さのあまり」「行き過ぎた指導」という言葉を常套句のように使うが、そういう人は「教育」「指導」の本来の意味を理解していないということになる。

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教育とは本人の「気づき、発見」を促し、対象となるスポーツや学問に「興味を抱かせ」、自発的にもっと学ぼう、もっと励もうという気持ちにさせることが目的だ。そのどの過程にも「暴力」「パワハラ」が入る余地はないのだ。

日本の教育は、長い間、教える側が目標を設定し、その目標に向かって生徒、選手を走らせるものだった。教師、指導者の「教え」とは、ありていに言えば「命令」であり、生徒、選手はその「命令」に盲従するものだった。だから、その「命令」に背くもの、「目標」に達することができないものには「罰」を与える必要がある。そういう文脈で「暴力」「パワハラ」は発生したのだ。
明治以降、戦前の教育は「富国強兵」のために行われた。個人の幸せのためではなく、国家の発展のためにあった。要するに「軍隊」と同じなのだ。だから鉄拳制裁や罵声も許されたのだ(今、世界では軍隊でさえもそうではないようだが)。
先輩や指導者に絶対服従するのは、それが軍隊の指揮官、先任官や上官と同じだったからだ。

今「行き過ぎた指導」「熱心さの余り」と言っている学校やメディアは、戦前の軍国主義の頭のままなのだ。一体終戦から何年が経ったと思っているのだろうか?

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