私は高校時代、ファッションには全く興味がなかったし、変な格好をする奴は「不良」だと思っていたから実感はないが、小学校から高校まで「細かすぎる校則」の問題に悩む子供はたくさんいた。で、いまだにいるようだ。

制服などの服装、カバンなどの持ち物から、教師とのコミュニケーション、さらには異性交遊まで、いろいろなことを細かしく決めて、それ以外のものを一切許さないという。
これをアメリカの教育手法で「ゼロ・トレランス」というそうだ。
学校側が決めた校則に即しているか、そうでないかの「1かゼロか」ですべてを仕切る。
そうしないと、学校の秩序が守れず、授業や学校生活に混乱が生じるという。

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確かに昭和の時代からそういう校則の問題はあったが、当時と今ではそもそも「教育」の目的が大きく変わっているはずだ。
昔は「協調性があり」「人と同じことができ」「我を通そうとしない」従順で純朴な人材を育てるのが「教育」だった。高度経済成長期、企業は大量の「企業戦士」を必要とした。彼らは決して組織の輪を乱さず、滅私奉公で働き続けた。その見返りは「年功序列」と「終身雇用」だった。

しかしそうした枠組みは今や、大きく崩れている。今から求められる人材は、「自分で考えることができ」「はっきりと主張ができる」人だ。今の教育は「生きる力」をつけることを最大の課題にしているが、それは「一人で生きる力」でもある。
そういう方向に教育の目的がシフトしているのに、学校は昭和の時代の「校則」をそのまま維持している。その背景にあるのは、学校、教師が「昭和の雇用」の在り方そのものだからだろう。教師は学校を離れたら生きていけない。「生きる力」などないのだ。そういう教師が生徒に「生きる力」など、教えられるはずがない。

確かに平成になって「貧富の格差」は広がった。いわゆる「底辺校」では、放課後にアルバイトをして学費や生活費を稼いでいる子がたくさんいる。彼ら彼女らは「外の世界」とつながっているから「校則」を守ろうとしない傾向にある。
ゼロ・トレランスで行く限り、厳格な「校則」を課さなければ学校は崩壊するという見方もあるのだろう。

しかし、そうした「教育」の枠組みそのものを壊していかない限り、日本の教育は、現実からどんどん置いて行かれそうだ。

この「校則」の問題、高野連が規定している学校や、高校球児への厳しい「規則」と全く同じである。
高野連も、昭和の時代のままであり、学校野球辞を規則で縛って「同じ方向」を向かせようとしている。
しかしスポーツの世界は、どんどん変化している。高校野球はとっくに置いて行かれている。
昨今の高知商野球部長の問題や、新潟県高野連の球数制限の問題なども、せんじ詰めれば高野連が「ゼロ・トレランス」で高校野球を縛り付けようとすることが原因だろう。

学校も高校野球も、自分たちこそが「時代に取り残されている」ことを認識すべきだろう。

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